(A)ローマ法王は、「体の形成は、進化によった」と述べたのですが、実に軽率な発言でした。もし、軽率ではなく熟慮の末であるならば、カトリック内部において、大きな神学上の変化があったことを暗示しています。というのは、もし進化によってできたならば、聖書の記述は嘘ということになります。それでは、聖書を訂正しなければならないわけですが、そのようなきざしはありません。
どこがどのように訂正されるのでしょうか。もし直接創造がなければ、アダムの堕落の記事も嘘ということになります。それとも、ネアンなんとかが、アダムだったのでしょうか。もし、アダムの堕落がなかったならば、キリストの贖罪も無意味になります。キリストの贖罪も無意味になれば、キリスト教は完全に崩壊します。
キリストが単なる良い教えを述べた哲学者であるならば、わざわざ十字架にかかる必要はありません。十字架はアクシデントであった。つまり、かっこいいことを言いすぎたので、権力から抹殺された哀れな善人ということになるのです。
カトリックは、このような陳腐な三流宗教に堕してしまったのでしょうか。キリストと麻原との違いはどこにあるのでしょうか。(*)
(*)よく、創造は信じるけれども、進化による漸進的創造であった、と主張する人々がいますが、その場合、聖書からそれを論証しなければなりません。もし論証ができないのであれば、聖書に誤謬があるということになります。
しかし、聖書に誤謬があるとなると、今度は、ではいったいどこが神の教えで、どこが人間の勝手な改竄部分(または作業ミス)なのか、という問題になります。つまり、真に神の啓示である部分と、そうではない部分を分ける作業が必要になるのです。
しかし、ここに大きな問題が生じます。つまり、啓示であるか、そうでないかを分ける作業をするのはいったい誰か、という問題です。
そう、人間なのです。人間理性が、それを行えるということになると、聖書は、それぞれの主観によって、100人100様の聖書ができあがります。
ある人は、奇跡は絶対に起こらないという信念を持っています。その人が、本文批評をして、奇跡に属する箇所をハサミで切り取っていきます。
また、ある人は、神は死刑を命じるような愛のない方ではない、という信念を持っています。彼は、カナン侵攻の箇所を全文、後代の加筆であると判断し、その部分を切り取ります。
このようにして、人がそれぞれ抱いている自分の信念によって、聖書を造ります。
それらは、どれひとつとして統一されていません。なぜならば、何が価値であり、価値ではないのかを決定するのが、人間になっているからです。
聖書を自分の判断によって切り張りしてもよいとすると、統一の信仰は不可能になります。
これは、すでに、啓示宗教ではありません。ヒューマニズムなのです。
人間よりも優れた超越者によって教えられるというのが、啓示宗教の特質でしょう。それが、人間よりも優れた超越者の教えがどれであるかを人間が決定してしまうのですから、結局、人造宗教になるのです。
例えば、聖書は、人を殺してはならない、と述べています。しかし、ある本文批評家は、人を殺すのが悪となるのは、成人に対する場合だけであって、胎児については人殺しにはならない、神は、胎児の生命までも保証はしておられないという考えを持っています。そして、彼が聖書において、胎児が死亡するような攻撃を妊婦に対して与えた場合、その攻撃をしかけた人には殺人罪が適用されるという律法を読んだときに、彼は、すぐに、「これは、中絶に反対意見を持つ教会人による加筆であって、オリジナルのテキストではない。」と結論します。
つまり、中絶を殺人とはみなさない人々は、中絶を非難する聖書の箇所をすべて聖書から削除できるのです。これは、もはや「聖書」ではなく、「中絶賛成論者の」という形容句を前に置いたものとなります。
聖書全体が神の超越的啓示であると主張しない人々にとって、聖書は自分の上にあって自分を教える教典ではなく、自分の考えを確認してくれる参考書でしかないのです。
したがって、聖書信仰ではないキリスト教は、当然のこととして、キリスト教とは呼べないのです。
聖書を神の御言葉と信じる場合、自分の主観や信念と反する教えが聖書に記されている場合、そのクリスチャンは、自分の考えを捨てて、その聖書の教えに従います。彼は、聖書によって、自分の思想を完全に変えようとします。
聖書自体がそのことを求めているのです。
「心を尽くして主に依り頼め。自分の悟りに頼るな。」(箴言3・5)ユダヤ人は聖書の写本を作成する時に驚異的な正確さを持っていました。写本に写し間違いがあるとそこで作業をやめて全書を廃棄するほど徹底したものでした。それゆえ、聖書において、写本間の相違はきわめて小さな部分でしかありません。教理上の重要な点に関わる箇所において相違はありません。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(第2テモテ3・16)
したがって、現存する写本が原典を忠実に再現していると期待することは十分に可能なのです。