地べた座り
ある番組で、電車の中でスカートをはいたままあぐらをかいて床に座りヨーグルトを食べている女子高生がいるという投書があった。
電車の中での化粧、駅のホームでキスをするカップル、狸と見間違えるようなガングロ化粧した女子高生・・・。
こういったモノを見ても彼らの主張する「個性の表現」には思えないのである。
努力の末に得られる「洗練」がなければそれは個性の表現ではなく「甘え」に過ぎない。
もともと、地べた座りはアメリカのヒッピーをはじめとする60年代のカウンターカルチャーから始まった。
二十年程前ロスの空港で地べた座りをしている人を見て驚いた記憶がある。
彼らは既成の道徳を破壊することを目指していた。
しかし、あの運動は破壊しただけで何も作り上げることはできなかったのではないだろうか。
既成の価値を否定し、自由を主張したが、その自由が自らの首を絞めることになったのではないだろうか。
大学権力に戦いを挑んで得た自由は、かえってひどい規制と束縛を生み出した。
以前、大学は夜にも校門に鍵が掛けられることなく自由に出入りできたが、学園紛争以後現在に至るまで厳重な管理の下に置かれるようになった。
教師と学生の間には不信の溝が出来てそれはまだ埋められていない。
大学の管理が進むにつれて、管理されることになれ、個性を失った顔のない学生たちが目的もなく授業に出ておしゃべりをして帰っていく。ある教官が彼らをフラミンゴの群と形容していたのを思い出す。
表面的には大学は平穏を取り戻したのだが、平穏よりも大切な何かを失ってしまったのではないだろうか。
闘争的で、過激で、トンガッテたが、何か優しくて、ユーモアがあって、話していて楽しいあの個性の塊のような人々はいなくなってしまった。
ローマ帝国の末期に、「大変だ。世界は終わらない。」と書かれたプラカードをもって歩き回っていた人がいたというが、今日の日本も世界も同じ様な倦怠につつまれているようだ。
性革命は、性の自由を獲得したが、それが何を生んだというのか。
退廃と家庭崩壊と援助交際と婚外妊娠と、次々と逮捕される痴漢サラリーマンや不良教師だけではないのか。
オリバー・ストーン監督は、60年代のカウンターカルチャーにこだわりをもって映画を制作している。
それは現在のアメリカの出発点だったからである。
「プラトーン」の中で主人公が「おれたちは傲慢だったのだ。」と語るシーンがある。
たしかに、ベトナム戦争は、戦争を甘く見たツケだったのだろう。
アイゼンハワーがベトナム介入を議会に訴えかけたときに、「アジア人などひとたまりもない。」という旨のことを言った。
そうだ。度重なる戦勝にアメリカは酔っていたのだ。
アメリカはキリスト教から離れて、自らの力を信じるようになった。
倫理を欠いて力に頼る政策にどのような結末が待っているかを彼らは悟らなければならないのだ。
倫理を失った旧世代に対して、倫理を捨てた新世代の反抗が、あの造反の時代の構図だったのではないだろうか。