相対主義の問題点2
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「時代や文化に応じて価値は変わる」ということを許容する基準がど>>
こにあるのでしょうか。どこまでも許容できるのでしょうか。後で仰っ>>
ておられるように、殺人についても、時代や文化に応じて変わるのでし>>
ょうか。>>
時代や文化に応じて価値が変わることを「殺人において」認めないと>>
いうならば、そこでR様は絶対主義者になったことになります。>>
相対主義を貫徹できなかった、と。>
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「人を殺すことがいけない」という「私なりの価値観」はあります。>
しかし、例えば「ナチスが占領している中での武装抵抗運動(当然、殺人>
も含まれる)」を「絶対悪」と出来るのか、私の中でも結論がでていない>
と何回も書いています。>
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いや、それ以前に、「相対主義であっても、その時点での個々人にはそれ>
なりの“絶対的”と思いこむ“価値観”はあり、それを主張することもあ>
る」というのがここ数回の私の掲示の意図ですし、私の言う「相対主>
義」とは「個々の絶対的価値観が併存しているという“現実としての相>
対”を認識する」ことであると繰り返し述べてきています。>
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「私が今、“殺人を認めない”という価値観を持ち、それを主張する」という>
行為のどこが「絶対的価値観を認めた」ことになるのですか?
(1)揚げ足を取るようでわるいのですが、「その時点での個々人にはそれなり
の“絶対的”と思いこむ“価値観”はあり、それを主張することもあ」るわけで
すね。そして、それを「個々の絶対的価値観」と呼ばれるわけですよね(引用文
下から5行目)。
ということは、「“殺人を認めない”という価値観を持ち、それを主張する」
という行為」は、あなたが「その時点でのあなたのそれなりの“絶対的”と思
いこむ“価値観”」なのですから、「絶対的価値観」ではないのですか???
もし、あなたの「絶対的価値観」の定義をそのまま使うとすれば。
(2)社会はある一定の優勢な価値観を基準として設定せざるを得ないと何度も
書いてきました。つねにオープンエンデッドにしておくというのは、個人の思想
の中においてはある程度可能でしょうが、社会という秩序を維持するという抜き
差しならない現実に対処するには、結論が出ていない状態を無制限に続けること
はできません。そこには自ずから、他者の主観を制限するきまりが現れる。
もし、このきまりが、社会を構成する相互の自由を規制し、あるときはその生
命までも奪う権限を国家に与えるということを、はたして相対主義者は、躊躇無
く行うことができるのでしょうか。
自分が賛同している秩序が、それに賛同しない人の生命を奪うこともあるわけ
です。現在は、それが正しいとされていても、何年か後に、あれは間違いだった
ということにもなる。すると、死刑にされた人は、間違いだったではすまされな
い、ということになりませんか。
これは、そのほかのことにも言えます。ある時代に社会通念に照らして、猥褻
であるとされていた書物を発行したが、現在の社会通念に照らしてそれは猥褻と
は言えない、ということになれば、その時代に投獄され、社会的な制裁を受けた
人の名誉はどうなるのですか。名誉は回復したとしても、その期間に味わった不
自由や、屈辱はどうやって償うのでしょうか。まさか、金で、なんて言えないで
しょう。
十年前、上海で、あるクリスチャンの新婚夫婦に会ったことがあります。彼ら
は新婚でしたが、もうすでに五〇歳ちかくなっていました。夫は、文化大革命の
時代にクリスチャンであるという理由で、医師の免許を剥奪され、公衆の面前で
三角の帽子をかぶらされ罵倒されつばを吐き掛けられ、20年間も収容所に送ら
れました。そのあいだ、フィアンセは彼を待ち続けて釈放されてから結婚したの
です。そして、夫は現在でも医師として働くことを許されていません。
相対主義によれば、社会には永久不滅のコアになる部分は存在しないのですか
ら(コアになる部分が必ず変化するならば、それはコアではないのです)、相対
主義者は、いついかなる時に、自分が語っていることが間違いとなり、それを現
在の秩序を維持するために他者に強制したことが逆転しないという保証を「一切」
もたないのですから、自分の行っていることに確信を持てるはずがありません。
いやいや、現在自分が考えている最善のものを提供しているのであるから、し
かたがない、と言うことは、原理的に不可能なのです。自分が善であると思って
いることは、「必ず」変化するからです。
相対主義者が、政権をとって、ある人の自由や生命を奪って、いわば取り返し
のつかないことをしようとする場合に、唯一使えるいいわけは、「それは、現在
の社会の大多数の構成員にとって不利益だから。」ということだけです。「コア」
すらも時代と文化で変化するのであれば、これこれの正当な理由が存在し、それ
にしたがって私は、この決断をしました、ということはできません。
そして、投獄されたり、死刑になった人々は、ただ生まれた時代が悪かっただ
けです。もっと、自分と同じような価値観をもつ人々が多数派をしめるような時
代に生まれていればよかったのに、ということだけです。
つまり、相対主義が他者に対してなんらかの強制をくわえなければならない場
合には、「おまえはこれこれの悪を犯した。だから逮捕する。」ということはで
きない。「ごめんな。おまえの価値観は、現在の大多数の人々の価値観とは合わ
ないんだよ。生まれた時代が悪かったと思ってあきらめてくれ。」としかいえな
い。
逮捕する側と逮捕される側の違いは、「運」の違いだけです。
これって、やっぱりリンチなんですよ。
「コア」すらも時代と文化で変化するという相対主義者の国家は、リンチ以外
のいかなるものも「犯罪者(犯罪者という言葉すら言うことはできない。時代が
変われば必ず犯罪者ではなくなるのですから。)」に与えることはできない。
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第一、私が問題にしているのが、まさに富井様がお使いになった「許容」>
という単語なんです。>
自らの行為の是非を、自らの内在に置かず、「他の絶対価値体系」におく。>
「神が許す」は「上官の命令だから」「上司の命令だから」に通じます。>
「絶対的価値体系」の怖さはそこにあるということなのです。
社会が秩序だって存在するためには、どうしても強制はつきものですから、絶
対相対にかかわりなく、組織の命令系統を守る軍人や会社員も同じことをするで
しょう。
原因を超越か内在かに求めることはあまりにも問題を単純化しすぎているので
はないでしょうか。
もし「絶対的価値体系」だから、こういったことが発生するのであれば、この
日本という「絶対が欠如」し、「個々の絶対的価値観が併存」しているとあなた
が言われる社会において、
どうして上司の命令で総会屋に資金提供する人がいるのでしょうか。
「上官の命令だから」「上司の命令だから」ということは、じつに普遍的に存
在する現象であって、責任を絶対に帰すことは論の飛躍です。
組織において、自分の地位を確保したい、もし、ここで上官や上司に逆らえば、
自分の生命や生活は破たんする。家族は路頭に迷うだろう、じゃあしかたない、
組織の命令にしたがう以外にはない。という組織人はいつの時代にも、どこにも
存在するのです。
超越なる権威がこれこれこういう命令をしたから、正当化できると言ったとし
ても、それは、単なるいいわけでしょう。
従軍して、目の前の婦女子を暴行するかどうか、ということは、良心の問題で
あって、絶対があるかないかの問題ではありません。
逆に、私は、相対主義であれば、婦女暴行ですらも確固不変の罪ではないので
すから、戦場という極限状態においてなら許されるということになりやすいので
はないかと思いますが。
(日本においても おてんと様が見ている、とか、地獄に落ちる、という教えが
あったのは、人が見ていようがいるまいが、時代がどうであろうが、普遍的な倫
理に照らして行動することが大切だということを勧めるための教えだと思うので
すが。)