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なぜ神であるイエスが誘惑に会わなければならないのか?



(Q)マタイ4章1節は、イエスが「悪魔の誘惑を受ける」ことについて述べています。
もしイエスが神であったなら、誘惑され、その自由意志を試されるようなことがあるでしょうか。「そのみ業は完全−−忠実の神−−−義であり、廉直であられる。」(申命記32:4)神が罪をおかしてご自身に対して不忠節になることは考えられません。イエスは神ではなかったので、不忠節になることもあり得たでしょう。しかし。イエスは忠実を保ち、「サタンよ、離れ去れ!”あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず、この方だけに神聖な奉仕をささげなければならない”と書いてあるのです。」と言われました(マタイ4:10)。


(A)イエスがサタンの誘惑にあわれたのは、イエスが、人間の身代わりに、神のテストを受けて合格する必要があったからです。そうしないと、イエスにつながる人々に合格者としての資格を与えることはできません。あくまでも、人間が天国に行けるのは、完全な行いによるのです。つまり、律法を完全に守ることによらないでは、けっして人間は天国に行くことはできません。アダムは、このことを神から期待されていたのですが、失敗してしまいました。それゆえ、アダムにつながっている人類は、皆失敗者とみなされるので(第1コリント15・21)、新しい頭に付かなければならないのです。  その新しい頭が、完全な義を達成して、天国に行く資格を手に入れるならば、それにつながる人々も有資格者と見なされるのです(第2コリント5・17)。

 そうではないと、神は基準を設定しておきながら、理屈に合わない救い方をしたということになります。つまり、情実入学のようなものです。どんなに身内であっても、きちんと試験を受けなければ入学させてくれないのです。

 人類は、自力では絶対に神の義に到達することができないので、キリストの義を転嫁してもらって、天国に行く資格を得ることができるのです。

 神であるキリストがなぜ試みにあわれたのか、それは、すべての誘惑に打ち勝って、人間として完全な業を達成することによって、信じる者すべてを同じ義にあずからせるためでした。




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