宗教改革がやり残したもの
再建運動(クリスチャン・リコンストラクション運動)が本格的に始まったのは、1973年の聖書律法綱要(R・J・ラッシュドゥーニー)の出版からであるといわれています。
これは、ある意味において、まさに新しいミレニアムへの準備としてふさわしい画期的な本でした。
それまで、キリスト教は、社会思想という点において、宗教改革の時代からかなり後退していました。福音は、ただ天国に行くための切符であり、クリスチャンはこの地上のことにこだわるべきではなく、伝道することによって一人でも多くの人を天国に連れて行くことが使命であると考えられていました。
このような考えは、実のところ、歴史的正統的キリスト教とはかけ離れており、むしろ、マルキオン主義の異端と等しいものです。
ジョン・D・ガール博士は、西洋キリスト教が逸脱したのは、コンスタンチヌス帝が、キリスト教をローマの公認宗教としたときに、ユダヤ的要素を排除することを決定したことに起因していると述べています。
カルケドン会議においてキリストの二性一人格が正統的教理として受け入れられた後でも、教会はキリストのユダヤ性を無視しつづけてきました。また、ユダヤの律法も、過去のものとして退ける傾向は残りました。
カルヴァン主義において、契約神学が発達し、セオノミー(旧約律法が新約時代においても有効であるとする立場)が説かれたのですが、残念ながら、今日の福音的教会は、アルミニウス主義の影響により、旧約律法を無視する傾向が強いのです。
いわゆる教養人たちは、これまでグレコ・ローマンの文化をそのまま受容するという姿勢を自己批判してこなかったために、この2000年の間、古くはギリシャ・ストア派の教えから、キルケゴールの実存主義に至るまで、教会には、数々の異端的教説が侵入してきました。
例えば、かなり教養のある教職者たちですら、平気で、ルソーをほめそやし、文化人類学をそのまま受け入れているような状況です。
わたしは、かつて奉職していた教会の主任牧師から、「文化には優劣はないのですよ。これは文化人類学では当然のこととされているのです。」といわれたことがあります。
文化は、神の律法の基準に照らして優劣があります。
殺人を当然のこととし、人の皮をはいでそれを身につけることが宗教儀式の一部となっているようなアステカの文化や、捕虜の首を狩ったり、異民族を虐待することを平気で行うようなアフリカの部族の文化が、キリスト教文化よりも劣っていることは明らかです。
もちろん、箸をつかうか、スプーンを使うかにおいて文化の優劣はありません。
しかし、この宇宙には一人の神がおられ、その神が定めた基準がある以上、そこからかけ離れているような文化は、神の目から見て「忌み嫌うべき文化」なのであり、程度の低い文化なのです。
もしこういった優劣がなければ、神がソドム・ゴモラをさばいたのは間違いだったということになります。
ソドム・ゴモラにおいて行われていた獣姦や同性愛は非難されるべきではないということになります。
聖書は、はっきりと、多様性が許される部分と、多様性を許してはならない部分とが明確に区別されるべきだと教えています。
文化人類学の基本は、無律法主義、相対主義にあります。
このような教説を教会が鵜呑みにするならば、当然、神が教会をさばかれます。
教会は、学問をチェックして、聖書の主張に合わないものを排除する責任があるのです。
アルミニウス主義の無律法主義、反セオノミーは、再検討されるべき時に来ているのでしょう。
基準を喪失しては、判断することができません。
カルヴァン時代に残された課題が現在、急浮上しています。