進化論の影響2
人間は何を考えているかということはきわめて重要なことであり、思考は現実化に向かうということは避けられないでしょう。
「適者生存しかない。正義か不義かでものごとは推移していくのではないなら、正義は無意味だ。」という結論はそれほど頭を使わなくても理解できます。
もちろん、人間には良心がありますから、徹底的に優勝劣敗の原理を適用することはできないでしょう。
たとえ進化論を信じていても、校門に知恵遅れの子供の首を飾ることを奨励する人はまれでしょう。
それゆえ、将来、進化論の原理が徹底された世界が登場することはまずないと言ってよいでしょう(ヒトラーやスターリンでも現れない限り)。
ただし、それでも人間は、思想の影響を必ず受けるので、進化論の原理をある程度体現するようになるでしょう。
例えば、みさかいのない性交渉は進化論の理屈から見れば、別におかしいことでもなんでもない。ならば、不倫をしようが、同性愛にふけろうが、獣姦をしようが、それを非難することは原理的にできないわけですから、そういったことが増えるのは目に見えています。
実際、そういった世相になっていますね。
しかし、同時に「それはやってはいけないことだ。」という声も人々の心の奥底にはある。
不倫がなぜ悪い、援助交際がなぜ悪い、と大胆に言うのは、こういった匿名の世界では可能でも、顔と名前を出して人前で堂々と言えるものではない。だから、今日でも社会が秩序を保っているわけですが、しかし、欧米では、すでに結婚という制度がかなり崩壊しています。日本でもそういう状況になるでしょう。
問題はそれでもいいのか?ということなのです。
結婚制度が破壊されることは、進化論から言えば別に問題ではない。だから、事実、都立大のヘンテコ助教授が「結婚制度は束縛であり今日では意味を失っている。だからこれを解消しなければならない」と言ってますが、離婚したカップルの子供がそれによって心に大きなトラウマを受けること、少年非行がこういった崩壊家庭から多く出ている事実をどう見るのか、ということなのです。
私には、こういったことになっても構わないというのは無責任に思えるのですね。
結婚制度とは別の養育制度を作ればよいではないか、ということも言えるのですが、ソビエトなどの社会主義政権においてそれは失敗しています。
結婚制度や少年非行の問題を対症療法的に取り扱うのでは間に合わない時代が来るだろうと考えています。つまり、原理的な問題にまでメスを入れなければならない時代が来るだろうと。
まだ、それほど問題が大きくなっていないので、人々は進化論の危険性に気づいていないというだけの話しではないかと考えている次第です。