異言は今日でもあるか?など
(Q)
治療として神癒だけを主張する人は、信仰と労働との調和がとれていません。神は、6日働いて、1日休めと言われました。
この、信仰と労働の不調和についてもう少し教えて下さい。
(A) つまり、彼らは、医療を受け付けず、神癒に頼るということが、信仰的な態度であると考えています。
福音主義の多くの人々は、この世は悪魔の世であり、世界の問題は携挙の後のキリストの再臨によって解決される、と考えますが、人間の創造された意味を見失っている考えであると思います。
神は、地球を支配させるために人間を創造されました。神の創造世界を人間の手にゆだねて、神への愛によって創造を完成させることが神の御心だったのです。ですから、人間の責任として委ねられている領域を、神の直接介入によって行ってもらおうとするのは、責任回避であって、創造の目的に反するのです。神は、しもべに商売を任せて遠くへ旅立つ主人なのです。そして、その結果を報告させる方なのです。
しかし、もう一方の極端は、神などいらない、人間だけでやっていこうとする、ヒューマニズムです。これも誤りであると言えます。なぜならば、安息日に休めと言われたのは、人間だけで業が完成するという神話を否定し、神が働いてくださる日を1日残せ、ということを示すためでした。7日全部働くよりも、1日休んで神様に委ねた方が、仕事はうまくいくのです。有名なたとえ話ですが、アメリカでゴールドラッシュがあったときに、同じ日に東海岸を出発した人々の中で、きちんと日曜日に休んで礼拝を守った牧師家庭が一番早く着いたということです。
人間が行う業は、神の力に委ねることなしには成し遂げられないことが安息日によって示されています。パウロは「あらゆることが聖霊によって完成されるようになるためです。」と述べています。
この6日と1日のパターンは聖書全体に流れている中心的思想のように思われます。人間の聖化は、ただ、神に任せていればよい、というのは誤謬です。何もする必要がないのではなく、神の命令を忠実に実行することによって達成されます。それには努力がいります。パウロは「自分の救いを達成せよ。」と信者を励ましています。「敬虔のための訓練」をせよ、とも命じています。しかし、この聖化はけっして人間だけで完成するわけではありません。完成は、再臨時の、最後の復活を待たなければならないからです。ここに、人間の限界を示しておられると思います。ある人は、「最後に栄化されるのだから、聖化のために頑張るのは無駄ではないか。」と言いました。そうではなく、神は、6日働け、しかし、それで完成したと思うな、私が安息日におまえの為した業を完成させなければ何も達成できないぞ。と仰っているのです。
歴史においても、人間の手の業である福音の進展によって、世界がパラダイスに変わることを約束する一方で、最後にサタンの最終攻撃がゆるされています(黙示録20・8のゴグ・マゴグ)。そして、それを撃退するのは、再臨のキリスト御自身なのです。ウェスレーの『キリスト者の完成』のように、人間が完全に自分や世界を聖化させることは不可能です。もしそうなれば、人間は傲慢になる。その傲慢をさせないために、神は、神の働かれる1日を用意されたと見ることはできないでしょうか。
(Q) 人間は、自然界を調べて、科学を発達させるべきです。科学の歴史、研究の成果をすべて否定することは、信仰的傲慢であり、神秘主義です。
日本の教会では(といっても教会自体がマイナーではありますが)そういった神秘主義はごくマイナーな存在に思えます。
(A)そうですか? たとえ教会が、科学を認め、教育において政治・経済・数学・物理・英語などを学ぶことを教会員に許しているとしても、それを信仰と結びつけることをしていないために、結局、別の領域のこととして退けているのではないでしょうか。
そして、教会において教えられているのは、これらの教育と別世界の幻想的終末論、社会からの逃避的態度、伝道へのやみくもな取り組みではないでしょうか。これは突き詰めれば神秘主義なのでしょう。ヴァン・ティルが述べたように、理性主義は神秘主義と秘密協定を結んでいるのです。教会は、科学に対して理性至上主義的態度をとっているために、信仰の領域において容易に神秘主義に走るのではないでしょうか。それゆえ、簡単に、「信仰は頭じゃないのよ。教理よりも経験よ。」という反知的発言が生まれるのではないでしょうか。
私はどうしても、あの学識の高い人がけっこういる様々な福音的教会における、菜食主義や、文化相対主義、マルクス的経済観、フロイト流心理学は、本音のところで彼らは神秘主義者ではないかと思ってしまうのです。もし、本気で学問の発達を願っていれば、こういったカウンターカルチャーの無原則的包容は起こらないと思います。
(Q)むしろ、「進化論」のような反聖書的な、いわゆる今の教育で「科学」とされているものに限りなく妥協的な教会は潜在的に多くあるように思えます。
カトリックやアルミニアンは、偶然の領域をその認識論において据えてしまっていますし、アルミニアンに反対する改革派を自認する教会でも実際的適用においては、同様の妥協的傾向を有するところは多いのではないでしょうか?
いのちのことば社「わかりやすい旧約聖書の思想と概説(上)」西満 著の6章「モーセ五書」の「創造の日の問題」の項では、「断絶説」「長期間説」「枠組み説」を紹介した上で、「実は現在では、前の三つの説を主張している福音派の学者のほうが、六日間創造説を信じている学者よりもはるかに多いのだということを知っていただきたかった...」としています。ゆゆしきことです。
(A)結局、前者のあからさまな科学軽視と、後者の進化論の容認は根っこがいっしょという感じがします。つまり、自分の世界を越えたものに関心をもたない自己崇拝と、世間の人から嫌われたくない、十字架を避けたい、という自己防衛でしょう。神を愛する思いは、科学も政治も経済も、すべてを神の御心にそったものに変えたいという思いに繋がるでしょう。自分の救いが達成されることが第一ならば、そのようなことはどうでもよいのです。そのようなことで世間の人々と摩擦を起こしたくはないと思うのは当然ではないでしょうか。
(Q)聖書において、クリスチャンは幻視を見ない、啓示が完結した今はそのようなことはけっして起こらないという箇所はないと思います。神は、様々な方法で、クリスチャンに教えることがあります。
屁理屈になってしまうかもしれませんが、起こらないという箇所もないですが、起こるという箇所もないですよね。
(A)非常に多くの箇所があります。
「神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇跡を行う人、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」(第一コリント12・28)
使徒の働きのところで、ききんが起こるという預言をするものがあって(11・28)、その預言がそのとおり成就したというのがあります。また、「預言を熱心に求めよ。」(第一コリント14・39)という教えもあります。
次の箇所を調べると、従来言われていたように、異言とか預言は啓示の完成後には廃れるという解釈は正しくないと思われます。
「預言の賜物ならば廃れます。異言ならば止みます。知識ならば廃れます。・・・完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。」(第1コリント13・8-10)
ここで完全なものが現れる時とは、「顔と顔とを合わせてみる時」(12)です。つまり、「私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになる」(12)時なのです。それはいつのことでしょうか。次のバーンズなどの解釈のように、肉体を離れて天の世界に入る時のことを指していると見るべきでしょう。
Disembodied spirits, and the inhabitants of the heavenly world, have this knowledge; and when we are there, we shall see the truths, not at a distance and obscurely, but plainly and openly.(Barns)
And our man's age and strength is compared to that heavenly and eternal life, in which when we behold God himself present, and are enlightened with his full and perfect light, (Geneva)
となれば、肉体を離れて天に入るときに、不完全な預言や異言や知識が廃れるのでしょう。ということは、異言や預言が廃れるのは、啓示の完成とは無関係であることが明らかです。この13:8−13で言われているのは、「異言や預言や知識は、信仰の諸形態であり、これらを通じて神を知ることになるのだが、それらは不完全であり、神をぼんやりとしか見ることができない。しかし、もし、永遠の世界に入るならば、神をはっきりと知ることができるようになる。その時に、異言や預言や知識は不要になる。それでも、愛は不要になりません。」ということでしょう。
この箇所から、聖書があるので預言や異言がないと主張することはできません。
(Q)富井さんがしてくださったような使徒的権威を表すしるしとしての奇跡やバベルの塔の裁きに対する解決・成就としてのペンテコステの異言というものは、現代に起こっているという主張は、少なくとも退けられるべきですよね。
(A)使徒的権威を表すしるしとしての奇跡は起こらないでしょうが、神が奇跡を行うことはなくならないでしょう。なぜならば、福音の前進は、サタンの世界を攻めとって、神の世界を拡大していくことだからです。
悪魔は人にとりつきます。そして、その人を自由に操り、悪いことをさせたいと思っています。悪魔の願いは、ある人または社会を完全に支配することです。最終的に全宇宙を自分の完全な主権のもとに置くことを願っています。ですから、彼がある人にとりついてその人のあらゆる行動や思いに影響を与えているならば、その影響から解放してあげる(悪魔祓い)のは神の御業でなくてなんでしょうか。これは、聖書の時代だけではなく、現在においてもありうるし、起こらなければならないのです。
病気の奇跡的な癒しもそうです。医学の発達自体が神の救済の一面でしょう。しかし、人間の労働が不完全であることを示すために、神は難病を与え、人間の無力さを示すことがあります。その場合、神が直接介入によってそれを癒すことによって神は人間の業の完成者となるのです。神の御国の発展は、神の働きだけではなく、人の働きを通じて行われます。(もちろん、すべての神の国の発展のあらゆる部分には神の力が働くのですが。)ただ奇跡だけで進むのではありません。また、逆に、人の働きだけで進むのでもなく、神の直接介入を期待しなければならない特別な場合もあるのです。
ですから、神の癒しだけでいいのだ、とする、信仰的神秘主義でもだめで、逆に、無神論的もしくは理神論的自律的世界観でもだめです。神と人とが共同することによって世界は神の御国と変えられていきます。ですから6日と1日の調和が必要だと言っているのです。人間の義務遂行6:神への完全委任1のパターンは、聖書全体を通じて流れている発想法ではないかと思います。
それから、バベルの塔の裁きに対する解決・成就としてのペンテコステの異言(これが異言であったかどうか議論が分かれますが)が、継続反復されないという保証はどこにもありません。なぜならば、キリストに従う人々が、もはや言葉の区別なく交わりを持って世界統一を達成できるということを示すために、人々に異なる言葉を話させることが繰り返し与えられて、人々がそれを見たときに、神が私たちを一つにしようとしていると感謝するかもしれないからです。
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