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心の傷を癒すには



 なぜ、最近「自分を愛する」とか「自己受容」などという教えが流行しているのでしょうか。なぜ、「心の傷」という言葉がはやっているのでしょうか。

 それは、人々が相対主義に陥って、客観的な価値を見失っているからです。

 彼らには、生きるための柱がありません。「だれが何と言ってもこれが正しいのだ」と主張できなくなっているのです。彼らは救いは人間からやってくると信じています。ですから、自分を殺して、環境に過剰適応するのです。

 自分ではない自分を人前で演出しなければ、自分は社会からつまはじきにされるとおびえています。

 この場合、いくら自分を愛したからといって、または、自己を受容したからといって解決はありません。心の傷を癒す唯一の方法は、いらぬストレスをためないことです。つまり、ありのままの自分を人前にさらけ出して、受容されればよし、受容されなければ、その環境から出るだけです。自分と合わない人々と一緒にいて苦痛ならば、それらの人々を避ければよいのです。それは逃げでもなんでもありません。

 他人を他人として認識できない「子供」の集まりの中にいると、自分が自分でいられなくて、疲れるだけです。彼らの目を気にすると、ストレスが溜まるだけで、百害あって一利なし、です。

 彼らは、人を利用する天才です。彼らは、自分の右の手のように他人を動かそうとします。彼らは、「日本人だったら、こう行動するのが当然だろう。」などと言います。「君の言っていることは理屈にはかなっているけど、日本では通用しないよ。」などと「助言」するのが好きです。

 こういった人は、自分と他人との間に精神的な境界線を引けず、相手の自我を独立したものと認識することができません。

 このような「子供」の集団が形成される土台は、客観的な倫理基準を持てないことにあります。つまり、自分を守ってくれるのは、社会や人間集団だけであって、その人間の集団の基準が、唯一自分を支えてくれる基準であると誤解するところから起こるのです。

 日本のほとんどの集団は、このような自他の区別のつかない人間によって成り立っています。日本には、自分を支えてくれる「超越者」がいなかったので、どうしても人間に依存してしまうのです。そのため、彼らは村八分を恐れて、集団に過剰適応することに生きる道を求めてきたのです。

 自分を意のままに利用しようとする集団に長い間いつづけると、心に消すことのできないトラウマが残ります。自分が自分であることが罪であるような集団にいつづけることによって、自分はその根本の部分において否定されるので、立ち直ることができないほど傷つきます。そして、ほとんどの人は、そのような傷を、他者に同じ様な傷を負わせることによって消そうとするのです。

 しかし、このようにして後輩いびりをしても、絶対に自分の傷は取れません。それは、不幸な人間を再生産するだけです。

 どうしたらよいか、というと、「自分を幸福にしてくれるのは、自分らしく生きることだけだ」と開き直ることです。

 自分を解放するためには、超越者を認めて、超越者に救いを期待するしかありません。超越者の前に正しくあれば、人間のつまらない習慣に従わなくても、けっして不幸にはなりません。

 「人を恐れると罠に陥る。しかし、主に信頼する者は守られる。支配者の顔色を伺う者は多い。しかし、人を裁くのは主である。」(聖書)

 運命の最終決定者は、聖書の神です。「他人は、私を幸福にすることも、不幸にすることもできない」と知れば、心は楽になり、心の傷は消えます。

 子供を懸命に、一流幼稚園に入れたがる親は、心に深い傷を負っています。彼らは、他人の目を通してしか、自分を見ることができません。自分を見失っているということは、自分がこれまで他者の無言の圧力に屈してきたことを意味しています。

 このような親に育てられた子供は、完全に歪みます。彼らは親の傷を癒すために利用されたのです。

 ある人がこのように言いました。
 「ボクが大学受験に失敗した時に、親がポツっと『しくじったね。』と言った言葉が忘れられない。」
 彼は、その後深刻なノイローゼになりました。

 彼は、親の名誉と虚栄心に利用されたのです。彼の人生は、親の劣等感を癒すための道具でしかなかったのです。彼は、愛情のない人の利己的な野望に振り回されたのです。

 彼は、よい意味でのエゴイストになる必要があります。他者の目を通して自分や世界を見るのではなく、また、他者が素晴らしいと言ったから素晴らしいと思うのではなく、自分が素晴らしいと思ったものを素晴らしいと思えばよいのです。

 自分の感情や判断に、もっと素直に従って生きれば、人生楽になります。






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