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大患難の幻



 近い将来に、大患難時代がやってくると主張する人々がいます。

 彼らは、これから大患難がやってきて、教会は大きな迫害に巻き込まれると考えています。


 この根拠となるのが、マタイ24章9−14節だと言います。


 「そのとき、人々は、あなたがたを苦しい目に遭わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大勢つまづき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」


 さて、この箇所は、終末の預言なのでしょうか。文脈を見ると、これは、けっして世界の終末の預言ではなく、「イスラエルの」終末の預言であることが分かります。


 イエスは、弟子たちが、エルサレムの神殿の壮麗さに驚嘆しているときに、次のように言われました。


 「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」(24・2)


 そこで、弟子たちが、イエスに質問します。


 「お話ください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(3)


 イエスは、この質問に対して、4節から31節において終末の様子を語られるのです。(*)


 現在、この前兆は、世界の終末の前兆として語られています。しかし、どこにもそのように示唆する箇所はないのです。


 並行箇所を見ますと、さらに明らかです。


 「宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。『あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやってきます。』彼らは、イエスに質問して言った。『先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。』・・・」(ルカ21・5−7)


 イエスは、「あなたがたの見ているこれらの物について」言われたのです。  「あなたがた」とは、「イエスの目の前にいる弟子たち」を指します。「これらの物」とは、「すばらしい石や奉納物」であり、それによって飾られた「宮」です。


 それ以外のいかなるものを指しているというのでしょうか。もし、大学受験の問題で、「これらの物」とは何を指すか答えよ、と聞かれた時に、「それは、終末期に現れるユダヤの神殿のことである」と答えたら零点になります。


 どこにも、終末期に現れるユダヤの神殿を示唆する箇所はありません。


 なぜ、このような文脈を無視した解釈がまかり通っているのでしょうか。


 このような解釈をする人々は、つじつまあわせに、「預言の二重性」という奇妙な解釈を適用します。つまり、これは、ユダヤにおいて紀元1世紀に起こり、終末にもう一度起こると考えるのです。


 しかし、聖書の他の箇所において、そのような二重の適用を許す箇所はありません。これは、預言の私的解釈であって、重大な罪です。


 例えば、旧約聖書のヨナ書のニネベの人々への審判の預言をその他の時代に適用することができるでしょうか。これは、紀元前8世紀のアッシリアのニネベの住民に対する預言であって、それ以外の人々に向けられたものではありません。


 ヨナが「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」(3・4)と叫んだのは、もっぱら当時の人々に対してであって、それから2800年後の日本人に対してではないのです。


 マタイ24章は、ユダヤ人への裁きが近づいていることを示すために、紀元1世紀のパレスチナに住むユダヤ人に対して書かれたのです。ユダヤ人は、長い間、罪に罪を重ねていました。神は、何人もの預言者を彼らに送り、最後にご自分の御子を送って悔い改めを迫りましたが、主に立ち返りませんでした。それゆえ、主は、彼らに滅びを宣告されたのです。23章には次のような、裁きの宣告が記されています。


 「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」(37−38)


 ユダヤは、主を否定しました。そのために、主は、彼らの国を滅ぼし、彼らを全世界に散らされたのです。それは、紀元70年に成就しました。


 紀元70年に、イエスの預言の通りに神殿は崩壊しました。ローマ兵は、神殿の壁を覆っている金を取るために、石を一つ一つ崩したのです。


 24章の前兆は、ことごとくこの動乱の中で実現しました。  


 歴史家ヨセフォスは、ユダヤ戦争において起こった出来事を記しています。


 にせキリストの出現(5節)、戦争のうわさ(6)、ききんと地震(7)、迫害(9)、背教(10)、にせ預言者の出現(11)、道徳の退廃と愛の欠如(12)、福音伝道(14)、神殿に「荒らす憎むべき者」が立つ(15)、すべてがこの時期に起こったのです。


 これらの成就については、「マタイ24章は終末預言か?」に記してありますので参照してください。


 大患難は、紀元1世紀に成就しました。これから、世界において、24章の大患難は起こりません。


 教会が、これから弱くなって、反キリストの支配下に入る、というストーリーをこの箇所から読みとることはできません。


 むしろ、教会(エクレシア)は、キリストの主権の元にその勢力を拡大し、全世界に広まるのです。そして、あらゆる権威や権力がキリストの主権を受け入れるようになります。




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