それゆえ、人間社会は、神の三位の間における社会と愛を反映しなければなりません。
神の三つの人格、すなわち、父、御子、御霊の間には、完全な調和と愛が存在します。
神は、絶対者なので、単一の人格を持つことはできません。なぜならば、単一であることは、愛する対象、服従する対象が欠けているということになるからです。
つまり、神は完全に自己完結しておられるので、その愛と謙遜と服従において、三位の間にはいかなる不足もありません。被造物がいなければ神が困るということはまったくないのです。
神は、愛において完全に自己完結しておられます。三位の間には完全な愛の関係が存在します。また、三位の間には、完全な服従の関係が存在します。神は完全に謙遜なので、三位の間に永遠の服従関係が存在するのです。
子なる神は、父なる神に服従します。聖霊は両者に服従します。
さて、被造物は、神の現実を、物質世界において現す責任がありますので、人間は、神の間の永遠の愛と服従の関係を物質世界において表現しなければならないのです。
それゆえ、人間の社会が愛の社会となり、権威の下にある者は、権威に対して服従することが必要となるのです。神は、正当な権威を人間に与えておられます。子供は父親に服従します。妻は夫に従います。そして、権威を与えられた者は、その権威を自分の欲望のために用いるのではなく、神の規範に基づいて、神の秩序を出現させるために発揮しなければならないのです。
このようにして、愛と秩序が両立する社会が生まれるのです。つまり、人間社会の原理は、もっぱら神の三位一体の内に存在するのです。三位一体こそ、人間社会の完全な模範なのです。
もし、社会が、神の三位一体に根拠を置かなければ、それは、自律的社会となってしまいます。つまり、模範が神とは別のところにある、ということになれば、それは被造物に法の根拠を見いだすことになり、それゆえ、被造物崇拝に陥るのです。
なぜ、人間は隣人を愛さなければならないのか、それは、三位の神が各々を愛しているからです。なぜ、人間は権威に服従しなければならないのか、それは、三位の神が互いに権威を敬っているからです。なぜ、人間は、互いに誠実であらねばならないのか。それは、三位の神が互いに対して誠実だからです。
これ以外にいかなる根拠も人間には与えられていません。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15・9−10)
神の律法は、神の属性から出ているものであり、神の性質と完全に調和しています。それゆえ、人間は神の律法を守る責任があるのです。
人間が神の似姿であり、神の性質の反映であるならば、社会も同じように神の反映でなければなりません。神の御性質は律法の中に表現されており、この律法を守るときに、神の栄光を反映することができるのです。