西洋文明と日本(ある慧眼者との対話から)
>そんな意識に凝り固まった幕末明治の留学生らは
>どんな意識でこれらを見たのか。そう思ったら、
>涙が出るような気がしたのを覚えています。
>「明治初期、パリの下宿で切腹した留学生がいた」
>との話を、実際実感を持って思い出しました。
たしかに、そのとおりですね。
わたしもレニングラードや、ヘルシンキで、西洋建築の圧倒的な力強さと美を見ました。
やっぱり、日本は後進国だ、との感は絶対に否めません。
どうして、あのようの街全体を美しく、しかも威厳に満ちた形で装飾できるのか。
香港や上海にも行ったことがあるのですが、やはり、東京と同じように混沌という言葉が当てはまります。
これは、やはり住民の意識というか民度というものが反映されているのではないか、と思います。
それから、はじめて西洋文化に接した日本人を虚脱状態にしたと思われるのは、西洋音楽です。とくに、オーケストラは、とても、他の文化圏ではまねできません。個性と全体の絶妙な調和。これは、圧巻としかいいようがない。
このようなヨーロッパ文明をどうして、日本は超越できたと見ることができるでしょうか。
やはり、日本には、このような文明を作りだすような思想的な背景はないと見るべきではないでしょうか。
日本人の傲慢は根拠がうすいです。日本がこれだけの知恵と知識と富を蓄えたのも、ほとんど西洋文明のおかげでしょう。日本が独自に作り出したものと言えば、あまりない。
映画評論家の佐藤氏が、戦争が終わって、アメリカの映画を見たときに、その映画の中で、「愛」という言葉が出てきて、そのときに、「これじゃ、戦争に負けるのも無理はない。」と悟ったということです。
文化の中ににじみでた思想的卓越。音楽や、建築だけではなくて、それらを生み出した人間の意識において、すでに、日本的なるものは、西洋に圧倒されているのでしょう。
法の意識や、自由経済や、人権思想、音楽、美術、スポーツ、家族、いろいろな面において、西洋は卓越した業績を残したのです。私が滞在したのは、ソ連でしたから、ロシア人はそれほど人種差別をしないので、劣等感を持ったことはあまりありませんでした。でも、フランスやイギリスやドイツなどでは、どう逆立ちしても、日本人は彼らに勝てっこない。
だから、語学留学なぞに日本人が出かけるならば、歴史をきちんと勉強して問題意識を持ってから行ったほうがよいと思います。文化がどのようにして誕生したのか、という元の部分について問題を感じない人が海外なんぞに行っても金の無駄遣いでしょう。
日本人は、まねしてきたのです。作り出したのではない。まねして大きくなったからといって、じゃあ、ひとりで立っていけるのか。昨今、日本もGNPなんぞで、鼻が高々になっているが、リーダーの責任を与えられない。なぜか。自分では何一つ作っていないからです。自分で、頭をひねって、作ったものが何もない。
最近亡くなった丸山博士が、「ドイツの戦犯は、思想に基づいて行動して、裁判においても、堂々たるものだったが、日本人の戦犯は、小心翼々としていた。これは、日本人が、思想によらず、その場の意見の大勢にしたがって、ずるずると戦争に進んだからにほかならない。」という意味のことを述べておられましたが、そのとおり、日本人の政策決定は、場の雰囲気なんです。だから、突出したリーダーが現れない。
現れても、つぶされる。思想なんてものに、価値をおかない非近代性がまだ日本の社会の至る所に見られる。
大学においては、実学に価値を置く。
私のいた大学では、英米語学科が最も人気があって、ロシア語なんかに入ると、親戚から、「何故ロシア語なんかやるの。」と聞かれる。金にならないことはやっても無駄だと言わんばかりに。
このような基礎学問に対する無理解は、自分たちの文化が基礎学問によって作られてこなかったからでしょう。技術だけを習得すれば、会社は運営できるし、金も稼げる。
しかし、その技術は、基礎学問の研究者の長い格闘の末に得られたものなのです。
だから、日本の文化というものに深さがないというのは、無理もないのです。日本の映画を見てもわかるのは、本当に浅い、ということです。見て損する映画ばかり。
親がこのような調子だから、子どももそうで、だから、語学留学なんかに子どもを出すんだったら、ちゃんと問題意識を持たせてからにしなきゃ、と思います。
なまじ、英語なんか話せても、中身がなければ、現地で麻薬とセックスに溺れて身を滅ぼすことにしかならない。
日本人は、集団崇拝民族ですから、ヨーロッパで言えば、ゲルマン民族大移動のレベルなんです。まだ、個に価値を置くことができない。この汎神論的メンタリティーにあわせていては、自分が死ぬ。
ジョン・バニヤンの「天路歴程」では、主人公が、自分の思想的な独立を守るために、家族を捨て、村を捨て、旅に出ます。こういった、旅立ちを許さない社会。すべてを抱擁する愛という美名のもとに、社会という抑圧的怪獣の中に取り込もうとする。腹の満たしが出来ないことに極度の不安を覚える。
これは、超越神の信仰がないから起こることであって、超越者の信仰は、まず思想的独立を確実なものにすることを要求する。ここで、自我は、断崖絶壁に立たせられる。しかし、それがなければ、真の独立はない。
天皇が処刑されなかたったために、日本は戦前の幻想を持ち続けて今日まで来ました。
戦争というものがいかなるものであるかを、日本人はまだ経験したことがありません。
古代から戦争は、神と神との闘いであって、負ければ、その国の神の権威は完全に否定される。
ソ連にでも占領されれば、もう少し国際社会の現実を見せつけられたのでしょう。まだ、日本は、本当の意味で異民族の支配を受けたことがない。虐殺・暴行・強姦・搾取・・・。元寇の時に、対馬の住民は、手に穴をあけられて、紐を通され、引き吊り回されたと聞いたことがあります。
アメリカはやさしかった。たしかに国益のために日本を最大限に利用しようとしたという側面はあるでしょう。しかし、アメリカは、それだけじゃないと思います。彼らの歴史観には、使命がある。自分たちは、ある崇高な価値を世界に広めるのだという使命感がある。それで、日本は救われたという面が強いと思います。
日本は、またしてもキリスト教に救われたという側面があるのではないか。もし、アメリカがピューリタンの文化的背景がなければ、どんなことをされていたか。
日本人のおめでたさの根底には、このような幸運が背景としてあるということは否めない事実ではないか、と思うのです。
>子供の能力の発達は単語数に比例するそうですが、
>そうするとこんなものは愚民化政策で
>す。
>「援助交際」なんて、つまり売春でしょう。
>「不倫」「浮気」とは、結局「姦淫」ではないですか。
>(教会でさえ「罪」を「不愉快」に言い換えるという話は、
>以前書いておられましたね)
>言葉をごまかすことで、概念そのものが衰亡したのではないかと思います。
言葉の乱れは、法の意識の乱れの反映であると考えています。
つまり、言葉に関する決まり、法則、そういったものを軽視する風潮は、法自体を軽視するところから起こっている。
基準とか、規則というものが破られても、生物的・社会的生活に支障をきたすことがない、と彼らは考えている。しかし、これは文化の死です。
あらゆる秩序は、法の基礎の上に成り立つので、法が破られても刑罰が下らなければ、その法は死ぬ。そして、法が死ねば、社会の秩序は崩れる。
言葉の乱れの中に現れた、無法主義は、文化の死滅の前兆です。
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