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聖書は女性を蔑視しているか?



聖書は女性を軽んじることを教えているでしょうか。

いいえ。

聖書において、女性は非常に尊重されています。

夫は、妻を、キリストが教会を愛したように愛さなければならない、と教えられています。

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のために御自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5・25)

つまり、自分のいのちを投げ出すほどの愛をもって妻を愛しなさい、と命令されているのです。

キリスト教の特徴は、男性の女性に対する愛です。

異教の社会において、女性は、しばしば神への犠牲として殺されました。
南米のある帝国では、若い女性が500人も神殿の柱の土台として生き埋めにされました。
インドでは、サティといって、夫の火葬の火の中に飛び込まなければ、貞淑な女と呼ばれませんでした。

聖書は、女性の有能さを非常に高く評価しています。

「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値打ちは真珠よりもはるかに尊い。
夫の心は彼女を信頼し、彼は収益に欠けることはない。彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし、悪いことをしない。
彼女は羊毛や亜麻を手に入れ、喜んで自分の手でそれを仕上げる。彼女は商人の舟のように、遠い所から食料を運んで来る。
彼女は夜明け前に起き、家の者に食事を整え、召使いの女たちに用事をいいつける。 彼女は畑をよく調べて、それを手に入れ、自分がかせいで、ぶどう畑を作り、腰に帯を強く引き締め、勇ましく腕をふるう。
彼女は収入がよいのを味わい、そのともしびは夜になっても消えない。」(箴言31・10−18)

 17世紀のイギリスにおいて、女性は、事業家として働き、非常に有能な経営者でした。貿易や保険業、製造業、様々な方面で活躍しました。

 「18世紀まで、女性は事業において夫のパートナーとして有能に活躍した。けっして能力が劣っているとは考えられていなかった。妻は、夫が長期の不在の間、夫のすべての責任を引き受けて活躍した。場合によっては、夫よりも有能である女性もいて、事業を立派に切り盛りしていた。」(Ferdinand Lundberg and Marynia F. Farnham, M.D., Modern Woman, The Lost Sex (New York: Harper, 1947), p. 130)

 「19世紀になってやっと、女性は、長い歴史の暗黒の中から日の当たる場所に出られたという、広く受け入れられている考えは、まったくの誤謬である。」(ibid., p. 421)

 しかし、啓蒙主義の時代に、男性は理性的であるが、女性は感情的であるという理由で、単なる飾りや弱い生き物としか見られなくなりました。万物の統治は理性に委ねられなければならないという考えが登場して、女性の役割が、ひどく貶められるようになったのです。この思想は、サー・ウィリアム・ブラックストーンの法理論を通して、アメリカに輸入されました。

 19世紀の前半に書かれた法学書では、女性は劣等な役割しか与えられていません。

 「ウォーカー著『米国法序論』:結婚を通して、夫と妻は一人の人間になる。その人間とは、夫のことを指す。・・・『ワートンの法』:妻は、夫の下僕でしかない。」(Charles Neilson Gattey, The Bloomer Girls (New York: Coward-McCann, 1968), p. 21)

 聖書において、夫となる男性は、結婚に際して、女性に対して、自分の年俸の3倍の額を持参金として、女性に与えなければなりません。これによって、妻の経済的地位は確保されました。これは、妻がいかに尊重されなければならないかを示しています。

 もし、夫が、自分の妻が結婚前に不貞を働いたために、処女のしるしを見ることができなかったという訴えをして、それが偽りであった場合、夫は、銀100シェケルを妻に支払わなければなりませんでした。

 ペルシャの人頭税が3分の1シェケルであることから考えると、銀100シェケルとは、非常な高額の罰金であり、夫は事実上、妻の奴隷に貶めるほどのものでした。

 創世記において、妻は、夫の「助け手ezer」であると述べられています。「助け手」とは、その原義において、「適合性」「類似性」「本質的相応性」を表します。つまり、妻は、夫と道徳的・知的に類似しており、思考や興味において共感でき、夫の欠けを補う者であると述べられているのです("Helpmeet", Pictoral Encyclopedia of the Bible, vol. 3)。

 このように聖書において、女性は非常に尊重されており、女性の能力や価値は重んじられているのです。






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