イエスや聖霊は神ではない?
(Q)聖書は神とイエスについて何と述べているでしょうか。・・・イエスは神を「唯一まことの神」(ヨハネ17:3)と呼ばれました。エホバ以外のだれかが全能者と呼ばれている箇所は、どこにもありません。イエスも聖霊も決してそのように呼ばれていません。
(A)
(1)聖書において、イエスは全能者と呼ばれていないでしょうか。
ヨハネの黙示録1章8節には、「キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。・・・見よ。彼が、雲に乗って来られる。・・・神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファ(αλφα)であり、オメガ(ωμεγα)である。』」とあります。
アルファであり、オメガである、という表現は、17節において、次のように言い替えられいます。
「わたしは、最初(πρωτοs)であり、最後(εσχατοs)である。」
これは、<エホバ御自身>を意味しています。なぜならば、イザヤ書44章6節に、次のようにあるからです。
「万軍の主はこう仰せられる。『わたしは初めであり、終わりである。わたしのほかに神はいない。』」
このことから、キリストはエホバと同一であることが明らかであり、それゆえ、全能者なのです。
また、ヨハネの20章28節において、トマスはこのように言っています。
「トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神。』」
これは、トマスがイエスを神と認めたことにはならないでしょうか。
ヨハネは、1章の9節において、イエスのことを、「ことば」と呼んでいますが、「ことばは神であった。」と明確に語っているのです(1・1)。
もし、三位一体(つまり、神はひとりであるにもかかわらず、3つの人格を持つということ)が奇妙ならば、このヨハネの1・1−2をどのように解釈するのですか。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は初めに神と共におられた。」
「ことばは神であった。」は、つまり、「ことば=神」ということなので、上の箇所の「ことば」を「神」と置き換えてみましょう。
「初めに、神があった。神は神とともにあった。神は神であった。この方は初めに神と共におられた。」
もしエホバの証人の方々が、神の人格は一つしかないと言うならば、「神が神と共にあった。」というのはどのように解釈するのでしょうか。神には複数の人格があると解釈せざるをえないのではないでしょうか。
また、聖書において、礼拝行為は、その礼拝を受ける存在が神であることを示しています。もし、被造物が礼拝を受けた場合は、礼拝された人または御使いは、それを頑固に拒否しています(使徒10・25、26、黙示19・10、22・8、9)。
しかし、イエスだけは礼拝されることを拒んでいないのです(ルカ5・8、マタイ14・33、15・25、28・9、第1コリント1・2)。さらに、ヘブル1・9においては、イエスを礼拝するように命令されているのです。
「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。『神の御使いはみな、彼を拝め。』」
また、テトス2・13では、はっきりとイエスが神であると述べられています。
「・・・大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光ある現れを待ち望むように・・・」
「大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光」の所を直訳すると、「大いなる神及び私たちの救済者、イエス・キリストの栄光」となります。「大いなる神及び救済者」と「イエス・キリスト」はどちらも属格であり、「栄光」を修飾しています。つまり、「大いなる神及び救済者」と「イエス・キリスト」は同格関係にあります。同格関係は、ある単語や句の言い換えによってその言葉の内容を補足説明するために用いますから、この「大いなる神及び救済者」と「イエス・キリスト」の間にはイコールの関係が成立するわけです。
それゆえ、パウロは、イエスを神であると考えていたと結論できるのです。
(2)聖霊は全能者ではないのでしょうか。
(i)聖書において、聖霊は、一貫して、父と子と並ぶ存在として描かれています。
マタイ28・19「行きなさい。そして、すべての国民を弟子としなさい。父、子、聖霊の名によってバプテスマを授けなさい。」
第1ヨハネ5・7「天において証しするものが3つある。父、言葉、そして、聖霊である。これら3つは1つである。」
マルコ3・28−29「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを行っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」
第2コリント13・13「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」
(ii)聖霊の言葉や御業は、神の言葉や御業であると見なされています。
イザヤを通じて預言された神の御言葉(イザヤ6・9−10)が、使徒の働き28・25−27において聖霊の言葉であると言われています。
「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの先祖に語られたことは、まさにそのとおりでした。」
その他、出エジプト16・7、詩篇95・8−11とヘブル3・7−9、創世記1・27とヨブ記33・4も参照。
(iii)聖霊は、神の特性を備えています。
(1)聖霊は、永遠の霊です。
「とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、・・・」(ヘブル9・14)
(2)聖霊は、全知です。
「御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」(第1コリント2・10)
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14・26)
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」(同16・13)
(3)聖霊は、遍在しています。
「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れてどこへのがれましょう。」(詩篇139・7)
(4)聖霊は、創造者です。
「神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える。」(ヨブ記33・4)
「神の霊は水の上を動いていた。」(創世記1・2)
「あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。」(詩篇104・30)
(5)聖霊は、神として扱われている。
「アナニヤ、どうしてあなたは、・・・聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分に残しておいたのか。・・・あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(使徒5・3−4)
「主である御霊の(κυριου πυενματοs)」(第2コリント3・18)
「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」(ルカ1・35)
これらのことから聖霊が神であるということは明らかです。聖霊の神性の教理にはほとんど反対はありませんでした。(ヘンリー・シーセン、組織神学、聖書図書刊行会240ページ参照)
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