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実を見て木を知る



(Q)あなたがやたらと強調している「首尾一貫した世界観」は、神が実在することを前提としていますが「神」が実在することをはっきりと証明できなければその世界観は、あなたと異なる信仰を持つ人間にとっては、無意味なシロモノになるのです。間違った前提からは、どのような「いい加減な」結論だって導き出せるのですから。

(A)これもすでに何度も述べていることであり、重複しているので繰り返しを避けたいのですが、ここで首尾一貫性と述べたのは、「ある前提を立ててその前提に立ったときに『その前提に対して』その理論は首尾一貫しているかどうかを吟味する」方法を説明するためです。けっして、一般的な意味−つまりあらゆる前提に対しても適用できる理論という意味−で「首尾一貫性」という言葉を使ったわけではないのです。

 無神論者には前提がないのでしょうか。彼らには立派な前提があるでしょう。「神は存在しない。」という前提です。それから、「神を前提としないでも人間は正しい認識を得られる。」という前提です。もし「有神論が不確かな前提によっている」と非難するならば、無神論者は、神がいないことを証明してから議論すべきでしょう。また、「神の啓示の前提なしで人間は正しい認識を得られる」ということを証明してから議論しなければならないでしょう。聖書を信じる者は、「神の啓示の前提なしで人間は正しい認識を得られない。」と主張していますから。私たちを納得させるには、このことを証明してからでなけばなりません。そうでなければ、無神論者の組み立てた議論は「いい加減な」結論だと言われても仕方がないでしょう。

 このように前提までもとことん疑っていけば、いかなる学問も成立しないし、どのような議論も成立しません。ですから、前提が違う者は、それぞれの前提に従って推論を続けていけばよいのです。そこで行き詰まって、その行き詰まりの原因が前提自体にあると分かったときに、それを捨てて、新しい前提を立てればよいのです。

 例えば、中学校時代に図形に証明問題というのをやりましたが、「この前提を立てると、ここで論理が行き詰まるので、この前提は間違いである、ゆえに・・・である」と証明する方法を学びました。

 このように、「実を見て木を知る」方法しか、この場合存在しないのではないかと思います。それとも、無神論者の方々は「神が存在しないこと」そして、「神の啓示なしでも人間は正しい認識を得られること」を証明していただけるのでしょうか?






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