カルケドン・レポート翻訳


 


家族への攻撃


R・J・ラッシュドゥーニー


 近代において長い間、家族は、啓蒙主義者と国家主義者から攻撃を受けてきました。そして、今日では、クリスチャンさえも家族を攻撃しているのです。

 四十年以上も前のことですが、退職者の住む地域において、この傾向ははっきりと現れていました。きわめて多くの退職者が、退職後に夫婦水入らずの家庭を築くことを願い、子どもたちに向かってはっきりと、「私たちは、おまえたちや孫たちに訪問されたり、泊まられたりするのがいやなんだ。」と伝えていました。しかし、ドロシー(妻)と私は、そのように言っていた人々が養老院のベッドの上で「誰も私たちを訪問してくれない。」とさめざめと泣いている姿を目にしてきたのです。もちろん、彼らは子どもたちが住んでいる場所から何百マイルも離れた所に引っ越して、誰をもよせつけないようにしていたからなのでが、今になって、彼らは無視されたと言って、悔しがっているのです。

 これらは、みな善良な福音主義のクリスチャンです。しかし、彼らの信仰は、本当の信仰よりも体面の方を重んじる薄っぺらな信仰でしかなかったのです。ある男性に起こった不快な事例を挙げましょう。彼は善良で裕福な人でしたが、悪妻をかかえていたために、退職することを何よりもいやがっていました。離婚は「考えられない」ことだったので、彼は事故を装って自殺したのです。彼の友人はみなこれを立派な行為と賞賛しました。そして、彼の奥さんのもてなしを受け続けたのです。

1950 年代の、この世代の人々の無責任な行為については、さらに多くのことを語ることができます。私がこれらの事例を引用するのは、「1960 年代の若者の反逆は、これらの敬虔な祖父母たちの反家族的・自己中心的態度に起因する」という私の持論を例証するためなのです。1960 年代の若者たちは「30 歳以上の人間をけっして信用するな。」と叫んでいましたが、彼らは自分の両親と祖父母たちを拒絶していたのです。学園紛争の急進的な学生たちは、主に急進的な家庭の出身者であったことは事実ですが、実際、その回りには「クリスチャン」家庭の出身者もいたのです。

 1970 年代に、退職者たちは、「私たち、子供の相続財産を遣っているところよ。」と書かかれた恥ずべきバンパーステッカーを車に張っていました。彼らの場合も、これは本音だったのです。西部の美しい山の牧場で、ある若者が、最初に入植した先祖たちから今日にいたる牧場の歴史を聞いていました。彼はその広大な牧場のすみずみまで愛していました。しかし、父親は、自分が選んだ大学に息子を進学させるために、それを売り払うことにしました。彼は息子に、もし大学に進学するならば、学費は出してやるが、進学しないなら、何も渡さない、と言いました。息子は、牧場関係の仕事がしたかったので、父親の申し出を断りました。そのため、彼は何も相続することができず、牧場の雇い人になったのです。両親は、売ったお金で旅行したり、遊んだりしました。

 1995 年に、ある家族経営の会社が売りに出されました。しかし、それは息子にではありませんでした。息子は、自分に譲ってくれれば、両親に彼らの年収分だけ、もしくは、利益から希望の割合を、一生の間払い続けると約束していたのですが。両親にとって、息子がどれだけ深く傷つこうが関係のないことだったのです。

 家族は困難の中にいます。それは、若者も老人も家族に関心を寄せていないからです。多くの息子や娘たちが両親から遠く離れて住みたいと願ったとしても不思議ではありません。もし、彼らが国家主義者によって反家族的教育を受けていれば、それは当然のことなのです。テレビや映画、大衆文化が、両親の愛や関心を「干渉」であると教えてきたのです。彼らの態度は、「私たちから離れていて。だけど、お金は遺してね。」なのです。

 しかし、家族は人生の中で避けることができない部分なのです。1917 年のロシア革命の後で、猛烈な反家族主義者であるボルシェビキたちは、人間を育てるために家族とは別の新しい制度を作ろうとしました。結果は悲惨な失敗でした。西洋は、家族に敵対した結果、似たような失敗を経験しつつあります。多くの子供たちは両親の愛や関心を「干渉」であると感じながら育っています。子どもたちに教育を与え、生涯の仕事を開始するのを助けるために出来る限りのことをしてきた親たちが、孫の顔も見せてもらえない、という事例が数多く見られるのです。または、子どもたちが最も遠い地方に移り住んだために会うこともままならないということもよくあるのです。親たちは「横柄」だったのでしょうか。私が知っている限り、このようなことはありませんでした。むしろ、子どもたちは「自由」を主張する一方で、次から次へと要求を突きつけていたのです。

 これは、社会的な問題であると同時に、宗教的問題でもあります。私たちは、神が次のように言われたことを思い出さなければなりません。「あなたの父母を敬いなさい。それはあなたがたが住む地においてあなたがたの齢が延びるためである。」(出エジプト20:12)神は、「生命の約束」は本質的にこの命令を守るか否かにかかっていると語っておられます。パウロはこの事実を思い出させていますが(エペソ6・1−3)、父たちが子供を怒らせないように、また、「彼らを主にあって教育・訓戒するよう」(エペソ6・4)命じています。

 社会の崩壊は家庭から始まります。そして、それはもうすでにかなり進行しているのです。神は家族を重要視しておられますが、怠慢にも教会やクリスチャンはこれを強調していません。

 現代の邪悪な風潮の中で、多くの人々は父性を嫌っています。しかし、私たちは、全能者が「お選びになった」名前は「私たちの父」であったということを思い出すべきでしょう。

This article was translated by the permission of CHALCEDON.


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