R・J・ラッシュドゥーニー
「オカルト」には、隠された事、ベールに包まれた事、秘密という意味があります。英語の occult は、ラテン語 occultus (occulo「隠す」の過去分詞)の派生語です。オカルト主義者たちは、自分たちの財産や力、活動を可能な限り隠そうとします。どの社会でも、オカルトの影響を強く受ければ受けるほど、人々は妬みや没収、襲撃を恐れて、自分の富を隠し、繁栄の印を消し去ってしまいます。また、そのような社会において、人々はリーダーになりたがりません。それは、リーダーになることは、陰険な中傷や攻撃を受けることを意味するからです。村八分や陰険ないやがらせを受けたくないために、彼らはできるだけ控え目に行動します。他の人よりも活動的であったり、勤勉であるように見られることは、仲間外れにされることを意味します。オカルトは妬みや憎しみ、平等主義と密接に関係しています。オカルトは隠れた欲望や衝動を尊重し、それらを実行に移すことをひたすらに求めます。オカルトはこのようにして開放的で安定した社会を転覆しようとするのです。
オカルトと平等主義は、どちらも相続の自由と継承を嫌います。それは、継承を通じて、社会に継続的で秩序正しい安定した基礎が与えられるからなのです。裏の世界の継承のためには、表の世界は破壊されなければなりません。継承を阻止することによって、彼らは、未来の社会から富を奪い、平等主義を促し、秘密の勢力に有利な立場を与えることができます。次世代が開放的で、豊かに相続を受け継ぐことができる社会となるためには、自由が保証され、可視性[ものごとを隠さなくてもよい自由]が保証される必要があります。しかし、秘密の勢力や敵意にとって、そのような自由の保証は、「表の世界の資本の蓄積と成長の鈍化」という目的の阻害要因となります。したがって、彼らはそれを破壊しようとやっきになるのです。
以上からお分かりのように、相続とその機能に関して聖書律法の意味を理解することは極めて重要なのです。継承の命令は次のように要約することができます。
あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。親は、信仰的な子供たちに(資産の許す範囲内で)相続財産を残さなければなりません(IIコリント12:14)。親がえこひいきしたために、信仰的な子供に相続が渡らなくなるようなことがあってはなりません。例えば、ある父に二人の妻がおり、第一夫人よりも第二夫人の方が偏愛され、相続権のある第一夫人の息子にではなく、第二夫人の息子に財産が渡るというようなことを律法は禁じています(申命21:15−17)。ルベンや他の人々の例のように、道徳的理由によって相続が退けられることはありましたが、これ以外では、通常、長子は二倍の分け前を受けたのです(申命21:16−17)。
人が死に、その人に男の子がいないときは、あなたがたはその相続地を娘に渡しなさい。もし娘もないときには、その相続地を彼の兄弟たちに与えなさい。もしその父に兄弟がないときには、その相続地を彼の氏族の中で、彼に一番近い血縁の者に与え、それを受け継がせなさい。これを、主がモーセに命じられたとおり、イスラエル人のための定まったおきてとしなさい。(民数記27:8−11)
聖書の相続法は宗教的・神学的なテーマです。神はご自身の選びの民に対して父親としての権利を持っておられます。相続法の基礎はこの父権性にあります。出エジプト記4章22−23節によれば、神は「父親」の立場からイスラエルを贖われました。
そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。「イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。そこでわたしはあなたに言う。私の子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。」第一、神は、ご自身が恵みに基づくイスラエルの父であることを宣言しておられます。そして父として、神は、囚われた状態にいるご自分の息子たちを贖い出します。神がお語りになっている「父性」はけっして誇張でも幻想でもありません。それは「法的な事実」なのです。恵みによって神の息子とされたイスラエルには、相続権heirshipという法的な地位が与えられました。神はご自分の相続者が滅んでしまうことを望まれません。
第二、神は「私の息子を行かせ、私に仕えさせなさい」と言われます。相続する土地において、彼らは仕事をしそれを発展させなければなりません。父親は財産を作りますが、彼らは息子がその仕事を継いでくれることを望んでいます。父親は、息子が家族の聖なる目的を達成するために勤勉に働いてくれるように願っています。その聖なる目的とは、地を支配し、その上にドミニオン(神の御国)を建設することです。相続とは、共通の仕事を継承し、奉仕することを意味します。相続権には責任と奉仕が伴います。こうして、相続権は単なる法的事実ではなく、労働と継承の問題にもなるのです。継承は途絶えさせてはならなりませんでした。この継承の必然性は、なぜ他の部族の親戚ではなく奴隷に相続権が与えられたのかということの理由を説明します。奴隷は、血縁者ではありませんが、信仰と目的の継承にあずかることができました。これは重要な事実です。
第三、神はご自身の父性を大変重要なものと考え、そのため、このように宣言されました。「もしあなたが彼(私の息子)を行かせなければ、見よ、私は、あなたの息子、あなたの初子さえも殺すであろう」。結局、エジプトの初子は死んでしまいました。いつの時代であっても、神は、御自身の選びの子たちに御自身を礼拝させるためならば、時の権力を罰し、世の初子をさえも死に渡されるのです。私たちは今日においてもまったく同じ神のお取扱いを期待することができます。また、私たちも神がお命じになったとおりの礼拝を献げなければならないのです。
神はご自身が御民の造り主、友であると言われただけではなく、彼らの肉の父親以上に誠実な父であると言われます。
まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。(イザヤ63:16)
ドーブが指摘するように、聖書において「神は民の所有者であり、また、彼らの親戚でもあり」ます。2
子を贖う父として、神はご自身の律法に対して絶対服従を要求されます(出エジプト20:2;レビ25:38、等)。神は民に対して服従を要求する権利とあらゆる命令を下す権利をお持ちです。それは、神が万物の創造者であるからだけではなく、贖い手[神は父親であり、最も近い親類です]でもあるからなのです。法律制定者であられる神は、われわれの生活におけるすべての領域に関して法律を制定されます。それには土地や相続も含まるのです。
土地に関する法律とその相続について、レゲットは次のように述べています。
旧約聖書の土地保有法の中心にある概念は、「ヤーウェは土地の真の所有者である」という確信です。「地は買い戻しの権利を放棄して、永久に売り渡してはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。」(レビ25:23)。土地はヤーウェの所有物であると考えられていたので、土地の所有と委譲の問題については、宗教的・道徳的な面からの考察が欠かせませんでした。「神こそ真の土地所有者である」という概念は、「イスラエル人は一人として自分の財産を永久に失うことはない」という事実によっても確証されました。3レゲットの研究は非常に重要なのですが、少々的はずれな部分もあります。というのは、土地法と相続の強調は神中心の概念であって、人間中心の概念ではないからです。イスラエル人は自分の土地を失いました。彼らから土地を奪ったのは神御自身であり、彼の裁きによってでした。
第一、明らかに強調点は、人間の所有にではなく、神の所有権に置かれています。事実、24節では、贖いについて、「土地」を贖い戻す権利に強調が置かれており、人間の保有には強調は置かれていません。地は主のものです。人間のものでも、国家のものでもありません。土地は、神が御自身の目的を実現するために取り分けておられる保有財産です。土地が買い戻される場合、買い戻しの相手は「主」です。それは、「地は私のものだから」です。
第二、神はイスラエルの所有者にこう言われました。「あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である」。C.D.ギンスバーグはこの箇所の意味について次のように述べています。
神も土地も残ります。民は間借り人なので、彼らがそこに住むことができるのは、神のあわれみによるのです。民は服従しなければ、追い出されてしまいます。たとえ彼らが神の民であっても、彼らはよそ者、巡礼者としてしか見なされていません。なぜならば、彼らが滅び失せたとしても、土地は残るからです。民の将来は、彼らの寿命の点から見るべきではなく、また、彼らの子孫の存続期間の点から見るべきでもありません。それは父なる神とその創造のご目的という点から見るべきなのです。神は、イスラエルがカナンの地を征服するのを手助けされただけではなく、その地をご自分の住まわれる地として選び給うた。そして、その中央にご自分の聖所をお建てになった(出エジプト14:13;民数記35:34)。それゆえ、神はその中で、土地の主として君臨されたのである。イスラエルはその地を借りている間借り人に過ぎない(14:34、20:24、23:10;民数記13:1、15:2)。そのため、彼らが神の命令に背けば、そこから出ていかなければならないのである(18:23、20:22、26:33;申命記28:63)。彼らはよそ者、寄留者と考えられていた。それゆえ彼らには土地を自分の意のままに売る権利がなかったのである。4
第三、土地は主のものなので、その所有については、信仰的継承を基準とし、神の御目的に沿った考え方をしなければなりません。土地保有法と相続法において最も重要なのは、「これらの律法は、イスラエルの『血縁的』系統を確立することではなく、イスラエルの『信仰的』系統を確立することを目指している」という点にあります。神は、信仰によらない系統の者をすべて追放してしまう、と言われます(申命記28章)。主の民は、主の宮の敷地の周りに住んでいました。
彼らは信仰と土地の継承を神の律法と創造命令にしたがって実行しました。神は、土地の所有権が不信仰な者たちの手に渡ることをお望みになりません。神はそのような者たちをみな追放されます。詩篇38篇11節にはこう書かれています。「しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。」
これこそが神の御目的なのです。このことは主御自身が強調し、繰り返し述べておられます。「柔和な者は幸いです。その人は地を受け継ぐからです。」(マタイ5:5)さらに、どちらの場合においても、「受け継ぐ」という言葉はその文字通りの意味(つまり、法的な意味)で用いられています。
祝福を受けた謙遜な人、贖われた人、そして、神に従順にさせられた人が、父なる神の世継ぎとして、土地を受け継ぎ、父に仕えるのです。彼らは生産的な土地を、信仰に基づいて所有しなければなりません。それは神の命令なのです。相続は本質において神学的問題であって、系図的問題ではありません。
レゲットは聖書における「財産と人」の関係に着目しました。財産は神のご支配を拡大するための基本的な道具です。創造命令を実行するためには、何よりもまず、神のご支配を拡大するための道具として財産を蓄え、増し加える必要があります。また、財産の内にある力と、それを通して働く力も強化する必要があります。レビラート婚[訳注:夫の兄弟がその寡婦と結婚する婚姻方法]の目的は、信仰に基づく相続を永続化させること、そして、神の御国において相続が持っている特殊な機能を発展させることにありました。
このように、聖書はわれわれに、オカルト的な閉鎖的継承ではなく、開放的で信仰的な継承を行うように命じています。箴言13章22節は次のように述べます。「善良な人は子孫にゆずりの地を残す。罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。」神がお定めになった歴史の目的は、偽の息子たちを追放することです。
事実、歴史はこれを実現する方向に進んでいます。堕落後、偽の息子たちは地球の支配権を握りましたが、それは再び神の恵みの息子たちの手に戻り、彼らによって継承されるのです。モーセは紅海の岸辺でイスラエルについて次のように歌いました。「あなたが、彼らを導き入れ、植えられます。あなたのゆずりの山に。主よ、あなたがお住まいになるためにお作りになった場所に。そして、主よ、あなたの御手がお建てになった聖所に。」なぜでしょうか。それは、神がそのようにご計画なさったからです。神の選びの民の「入植」は、神の聖所及び、神の御存在と御目的と関係しているのです。
詩篇作者は次のように言います。「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を堅く保ってくださいます。」(詩篇16:5)。ここでレビ部族について触れなければなりません。彼らの相続は、土地ではなく、主御自身でした(申命記10:9;18:1,2)。主の御国が繁栄するにつれて、その十分の一献金と献げ物を通じてレビ人も繁栄しました。これは、すべての神の民についても言うことができます。レビ人と同様に、彼らも神の御国の発展とともに繁栄するのです。
神の御国と神の相続法を破壊しようとするすべての試みは、秩序正しい生活の基礎を破壊することになるので、自殺行為であると言えます。オカルトと自殺(死への意思)との間には明白な関係があります。
ダビデは詩篇において、ある人々の苦悩について取り扱っています。彼らは、
社会の基礎を破壊しようとする者たちによって生命と財産を脅かされています。ダビデは、疑いや恐れを抱いている彼らに次のように答えました。「神は御民のために相続を確保しておられ、悪者のためには刑罰という相続を確保しておられるのだ」と。詩篇11篇によれば、
主に私は身を避ける。どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。恐れを抱いている人々は次のように質問するでしょう。「いつ社会の基礎は破壊されるのか。正しい人には一体何ができるのか」と。
それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」
主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。
その目は見通し、そのまぶたは人の子らを調べる。主は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは、暴虐を好む者を憎む。
主は、悪者の上に網を張る。火と硫黄。燃える風が彼らの杯への分け前となろう。
主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。
それに対してダビデはこう答えます。「神の相続は正義である。それゆえ、御民は逃避せずに、神の贖いの力と、神の相続の拝領を信ぜよ。しかし、悪者の受ける分は厳しい裁きである」と。
神が御民にお与えになる相続は、時間的でもあり、また永遠的でもあります。それゆえ、神の律法は時間の世界と永遠の世界の両方を支配します。律法は財産の相続と、救いの賜物に対して効力を有するのです。財産を世に属するものであるとか、人間的な関心事と考えることはできません。神の御言葉を信じる人々にとって、財産は神に属する事柄であり、神中心の現実なのです。われわれの生活において、財産が神の座を占めることは許されません。しかし、財産を何か神や信仰と無関係なものと考えることも誤りなのです。
財産だけではなく、子供も主からの相続です(詩篇127:3)。財産と子供はどちらも地上に神のご支配を拡大するための手段です。財産がそうであるように、子供は信仰者にとって戦いの武器となります。子供は敵を征服するための手段なのです(詩篇127:4−5)。神の民、すなわち「群れ」は「神の相続財産」(Iペテロ5:3)です。そして、彼らの財産と子供は神の相続財産の一部なのです。詩篇61篇5節は「あなたの御名を恐れる人々の相続財産」について語っています。それは、「選ばれた民の栄誉であり特権」です。5聖書において、相続は神学的事実でもあり、法的事実でもあります。相続法を「この世的」であるとか「もっぱら国家に関する事柄」と考え、信仰とは無関係なこととして無視することは、聖書信仰の重要なポイントを見逃すことであり、神の御名を恐れる人々の相続財産についてますます理解を失うことを意味するのです。
1.参照:R.J.Rushdoony: The Institutes of Biblical Law, p.180f. Nutley, N.J.: The Craig Press,(1973)1974.
2.David Daube: Studies in Biblical Law, p.47.
3.Donald A. Leggett: The Levirate and Goel Institutions in the Old Testament, with Special Attention to the Book of Ruth, p.84. Cherry Hill: Mack Publishing Company, 1974.
4.C.D.Ginsburg, "Leviticus," in Ellicott, I.456.
5.J.A.Alexander: The Psalms, Translated and Explained, p.268. Grand Rapids: Zondervan(1850), reprint.
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