野蛮人barbarianとは、歴史を拒み、歴史を持たない人と定義することができます。新しい野蛮人は、自覚的に歴史を持とうとしません。彼らは、キルケゴールやニーチェ、サルトルなどの思想の産物です。
実存主義者は、現在だけに生き、現在のためだけに生活する人々です。過去や家族や宗教、教育、そしてそれらの成果に対していかなる関心も払いません。実存主義者は、自らの選択によってこのような生き方をしているので、意図的な野蛮人であるということができます。これは、何世紀も前の野蛮人とは異なるのです。
今日の国家主義者の教育は、至る所でこのような野蛮人を大量生産しています。これらの野蛮人たちは、自らの過去について無知であり、浮き草のような生活をしています。お酒や麻薬に溺れ、彼らの無責任な目標に向かって進んでいるのです。彼らは、その日暮らしの生活をし、感覚の世界に埋没しています。
新しい野蛮人たちは、独特な神話を信じています。かつて、世界中の人々は幸せに暮らし、性的自由を享受していた。彼らには罪の意識がまったくなかった。そのような幸せな生活を壊したのが、キリスト教であった、と。
このような神話は、繰り返し非常な勢いで広まりました。新しい野蛮人たちにとって、これは侵すべからざる神聖な教えであり、それゆえ、けっして死に絶えることはないのです。
しかし、自分の歴史を否定したり、そのルーツから自らを切り離すことによって、人は、その未来をも否定することになるのです。なぜならば、生命とは発展であって、選択できるものではないからです。
今日、やりたいことができなくなっているのは体制が悪いためだ、と主張する人々がいます。しかし、実際は、何事かを達成するために自ら努力していないためであり、忍耐することを怠っているからなのです。
新しい野蛮人たちは、「われわれは犠牲者だ」と叫びます。人種差別や性差別、資本主義などによって苦しめられているのだ、と。彼らは、声高に権利を主張します。彼らは、自ら設定したゴールに到達する権利を有していると考えているのです。
古代ギリシャにしろ、ベトナムにしろ、古代の異教に特有の信仰は、「因果律ではなく、悪い運命が世界を支配している。」というものでした。ギリシャ悲劇は、そのような思想を表しています。英雄は、つねに悪い運命に翻弄されます。彼らがいかに純真であろうとも、神々は、彼らをあらゆる災難に遭わせ、残忍な罰を加えます。ギリシャ悲劇やベトナムのシエス物語において、善人は無惨に殺害されます。人生や出来事を支配しているのは、因果律ではなく、まったくの不条理であるというのです。
今日の人気番組や映画において、これと同じ無思慮な不条理、原因のない災難、無意味な物語が横行しています。これは、旧いタイプの野蛮人だけではなく、新しいタイプの野蛮人にとっても、重要なテーマなのです。人生そのものが悪であるのに、何故善でなければならないのか。人生や神々が不条理であるのに、なぜ道徳的になる必要があろうか。
旧い野蛮人にとって真理であったことが、新しい野蛮人にとっても、真理なのです。つまり、「不条理が究極である」という主張は、今日なおも多くの人々に支持されているのです。「ヴェネラブル・ビーデ」紙が次のように報じていました。「イングランドがキリスト教に改宗した結果、以前信じていた異教の不毛さと、キリスト教の豊かさの違いが、対照的に浮き彫りにされた。」と。
新しい野蛮人を観察していて驚かされるのは、彼らが、災厄とか暗闇を好んでいるということです。彼らは、娯楽の最中でも恐怖に襲われることを望みます。災難は、多くの人々にとって、魅力的で、心を燃え立たせる出来事なのです。これは驚くべきことではありません。というのも、これは死への愛着と深く関係しているからです。箴言8章36節は、「しかし、わたしに逆らう者は、自分の魂を損なう。わたしを憎む者は、みな死を愛する。」と述べています。死への愛着は、新しい野蛮人の顕著な特徴です。彼らは自殺的で、その未来は荒涼たる砂漠です。
イエス・キリストを主であり救い主であると信じ、その教えに堅く立ち、神の法を聖化の道標と信じるクリスチャンは、世界の未来を担っています。彼らは、いのちの民であり、死の民ではありません。(ヨハネ14・6)
新しい野蛮人は、いつも死を愛し、死ぬことを望んでいます。彼らの「生活様式」は、死の様式と呼ぶ方がふさわしいかもしれません。「人はふところに火をかき込んで、なおも着物が燃えないことがあるだろうか。」(箴言6・27)私たちを取り巻く世界は、自殺的です。私たちは、いのちを生み出す使命を帯びているのです。主によって救われたのは、ただ部屋の奥に引っ込んで天国を待つためではなく、主のために働き、世界を征服するためなのです。裁きは、召しを受けても、なおもそれに応じない人々の上に下るのです。