西洋文化の奥底に根を張るヒューマニズムは、ピューリタニズムと宗教改革思想の中に忍び込み、それらを破壊し、同時に、反宗教改革運動の継承者ともなりました。新プラトン主義はその一つの要素であり、1 心理学はもう一つの要素でした。
霊的自己吟味という名によって、心理学は神学や倫理よりも重んじられるようになりました。1600年以後あらゆる神学の学派において、人々は「病的な自己解剖」と言ってよいほどの自己吟味に没頭しました。例えば、ピューリタン文学が自己吟味による過度の内省に陥った結果、[世界をキリストのために獲得することを目指す]世界征服の信仰は衰微し、世界に対する関心が急速に失われていきました。
ラーザー・ジフは、初期アメリカピューリタン発展史について次のように述べました。「心理学は救いの体験を研究するための科学として倫理よりも重んじられた。もしだれかが『木はその実によって知られる[ある人の本質はその行為によって見分けることができる]』ということに異論を唱えると、『木は実によってではなく、根によって己を知ることができる[ある人の本質は行為によってではなく、その人の過去を知ることによって分かる]』とのはっきりとした答えが返ってきた。」2このような変化はアメリカ人の生活と文学に今も影響を与え続けています。オースティン・ウォーレンはホーソーンの作品の中で「良心は意識に取って代わられる。」と言いました。3
実際これは、心理学が道徳よりも重要になり、自我とその意識が法の上に立つようになったことを意味しました。「道徳や法は、経験・意識の自由な表現や、あらゆる生き方を選ぶ自由を妨害したり束縛してはならない」とすると意見はますます影響力を増しています。
心理学や経験が重視されると、人々は、自由な経験に規制を加える法や制度に敵意を抱くようになります。経験主義がもてはやされるようになると、人々は行き過ぎた性行為やあらゆる形態の自由恋愛を、結婚や法よりも重視するようになります。私たちの回りにおいて、性革命が進み、結婚・家庭に対するあからさまな敵意がはびこっているのはこのためなのです。
経験の解放を求める人々は、安定から解放されることを求めます。法や結婚は人に安定と安全を与えます。筆者は学生のとき、ある急進的な教授の講義を聞きました。彼は、クリスチャン中流階級に対する最大の侮辱であると自ら考えていた数々の悪口を言いました。つまり、彼は、クリスチャンが家庭や子供や「お勤めの」セックスに満足していることを非難したのです!満足は、本当の生き方をしていないことの証しでした。この同じ教授は、当時の人気戯曲家ユージン・オニール(彼の知己らしい)の内面的混沌と苦行を偉大な精神のしるしであると考えていました。彼は、「もし諸君がシェークスピアの人生の実状を知るならば、これとある程度似ていることに気づくであろう。」と言いました。
経験主義の世界において、確信は悪です。なぜならば、確信を持つことは、心理学的な自己吟味への妨げとなるからです。それは経験を広く受け入れようとする心理学的受容の扉を閉じてしまいます。それは際限のない自己吟味を無価値なものと断定します。トマス・アキナス(『神学大全』pt.ii,1,quest.112,art.5)とハレのアレキサンダーは、スコラ主義に基づく「確信」の教理を作り始めました。カルヴァンも、アウグスブルグ信仰告白やウェストミンスター信仰告白と同様に、このテーマについてはっきりと語っています。ウェスレーでさえこの教理を捨てませんでした。しかし今日において、この教理は、形式的には保持されているようですが、一般には不毛の教理となっています。心理学が神学より重視されると、確信の教理はイエス・キリストの客観的な御業への信頼を教えるのではなく、むしろ、心理学的な自己吟味の手段になってしまうのです。
ここに問題解決への鍵があります。キリストの客観的な御業は、十字架上の贖いと身代わりの犠牲、そして、彼の死と復活による罪と死への勝利を意味します。契約の民が受けるべき死刑は、イエス・キリストに対して[身代わりに]執行されました。イエス・キリストは新しいアダムとして、ご自分の民に神の新しい創造の道を再開されたのです。新しい創造は御民の再生[回心]とともに始まります。そして、彼らが地を従えるために働く時に発展し、キリストの再臨と新しい創造が完成するときにその絶頂を迎えるのです。死刑はキリストが律法に服従したことによって無効になっています。我々の罪を負う人として、また完全かつ従順なアダムとして、彼は罪と死から我々を解放し、生命と義に導き入れてくださったのです。律法はもはや我々に死刑を宣告することはありません。逆に、律法は我々の生命と支配の憲章となり、我々が生き、そして勝利する道を示してくれるのです。
経験主義は恵みと律法を捨てて、その代わりに人間の経験を採用しました。このような人々は、自らの結ぶ実や、彼らの主への服従や誠実によって自らの立場を決定するのではありません。このことは、自己決定と自己選択、そして恵みと律法の価値を下げることになるのです。
現代人の自己吟味と心理学への偏りは偽りの人間論に基づいています。もし人間が本質的に三分法や二分法によって分けられるならば、人間存在には二つまたは三つの相互排他的・相互矛盾的側面があることになります。このような新プラトン主義やマニ教的な人間観に基づくならば、人間の内面は、永久に内戦状態にあることになります。というのは、彼らの魂と肉体は互いに相反する衝動を持っているからです。このような人間は言わば二つか三つの生命を持っているのです。例えば、新プラトン主義において、人間は肉体の生命と霊の生命を持っています。そしてそれぞれには、固有の歴史や運命があるのです。
聖書の人間観はこれとはまったく異なっています。人間は一つの存在、造られた存在です。その存在全体が堕落の中にあり、存在の全体が贖われ、「肉体」も「霊魂」も共に復活するのです。パウロがロ−マ七章で記述している対立は新プラトン主義的でも心理学的でもなく、パウロという人間の全体と、彼の存在の内にある神の証しとの間にある対立なのです。これは神学的倫理的対立であり、心理学的対立ではありません。心理学的という言葉を使うことができるとすれば、それは、パウロの精神が問題になっているからに過ぎません。根本的問題はパウロと神との間の関係にあるのです。すなわち、問題と解決はどちらも神学的であって、心理学的ではありません。
パウロが、「我々は自分を吟味しなければならない。」また、「自分をさばきなさい。」(第一コリント十一・28,31)と説くとき、それは神の御言葉という基準に照らして行われなければならない、と言っているのです。この場合、我々が聖餐を共にあずかる際の心構えについて言っているのです。我々の主がなさる、人間存在の統一性に基づく吟味は、結ぶ実によって己を知るという方法なのです(マタイ七・15-20)。
このように、聖書は、契約の神と神の律法に対する誠実が契約的人間の特徴であると宣言しています。感謝の表現は誠実です。初物を捧げる儀式においてこのことははっきりと言われています。契約的人間[つまり、クリスチャン]は初物を捧げるとき、「神こそ万物の主権者であり、万物に対して絶対権を保持しておられる」と告白しているのです。契約的人間は、救いの特権を喜びつつ、己を神の奴隷として献げるのです。
申命記二六・1-11において、信者たちは「ヤーウェは歴史の主であり、また自然界の主でもあられる。そして、この二つを通してイスラエルを祝福される」4と告白しています。彼は「自分と民はその存在と幸せを神の恵みに負っており、この恵みは彼らがエジプトの圧政から奇跡的に救い出され、カナンに導かれた事実の中に明らかにされている」5 ということを認めているのです。
このように、契約的人間の感謝は、第一に、超個人的でした。彼は己の魂の救いについて喜んだだけではなく、契約の民に対する神の贖いの御業とご配慮を喜んだのです。これは個人的な感謝でしたが、決して自己中心的な感謝ではなかった。彼の喜びは個人的であると共に共同体的もしくは契約的でした。
第二、契約的人間は恵みの養子縁組によって主から「相続」を受けていました。そして、自分を贖い、相続者とし、相続を通して祝福を与えてくださった生ける神に感謝しています。
第三、彼は彼の収穫の初物と十分の一を主に携えてくることによって子としてくださる恵みに感謝しています(申命二六・12-15)。収入の十分の一の一部として、また主に対して感謝を表しつつ、「あなたのすべての戒めにしたがって」彼はレビ人や外国人、孤児、やもめに施しをしています。
第四、「もし彼らが契約的人間としてふさわしく、誠実に歩むならば、神は、彼らの神になり、彼らは御自身の民となるだろう」と保証されました。(申命二六・16-19)。「律法に服従するならば、すべての国民の上に高く上げられ、祝福される」ことを神は体験を通して彼らに教えられました。
ここにはいかなる自己吟味もなく、際限のない自己精査もありえません。彼らは誠実なのか。彼らは信じて従っているのか。彼らは主を告白し、主に従っているのか。そこにあるのは心理学ではなく、神学と道徳の実践なのです。
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