償い
冒涜罪に関して考察する前に、償いの問題を短く取り上げる必要がある。1
聖書において、義(
justice)とは償い (restitution)である。償いと回復は義の本質である。犯罪に対する解決策としての刑務所制度は、近代の産物であり、反聖書的である。刑務所制度は償いや回復のためには何の貢献もせず、犯罪者を社会から一時的に隔離するだけで、それ以上のことは何もしない。犯罪による被害を弁償することもなく、その本来の目的である犯罪者を矯正することもできないのである。
出エジプト記22章1節には、聖書における義の基本原理が記されている。償いとは、盗まれたり破壊されたりしたものか、もしくは、それと同等の価値あるものを、盗まれたり破壊されたりしたものと同等の価値あるものを付け加えて返却することであった。償いは罪の大きさに応じて決定された。刑罰も罪の大きさに応じて決定された(出エジプト21:23−26)。死罪に対しては、死刑執行は義務であった。偽証に対する刑罰は、偽証によってぬれぎぬを着せられた無実の人が負わねばならない刑罰と同等のものでなければならなかった(申命19:16−21)。2
ここで、明らかにしなければならないのは、恵みと法、義認と聖化が互いに密接に関連しているという事実である。我々は、まずエデンの園と神の原初的創造世界について考察することから始めなければならない。被造世界全体は、初め完全なものとして造られていたのであるが(創世1:31)、後に人間の堕落に伴って堕落し(創世3:17−19)、現在人間の回復によってもたらされる解放を待ち望みながら、うめき苦しんでいるのである(ロ−マ8:18− 23)。初めは完全であった被造世界は、人間の悪業によって破壊された。そして、その破壊は今でも、人間の罪深い行いによって引き起こされる呪いが大きくなるにつれて進行しているのである。この罪に対する刑罰−人類と世界の中に死が入ること(創世2:17)−はあらかじめ啓示されていた。この罪に対し、神の義は、償いと回復を要求している。この約束は、堕落の直後に与えられ(創世3:15)、キリストの復活後、この約束を実行する職務はキリストを信ずる人々にあると宣言されたのである(ロ−マ16:20)。
第二のアダムであるキリスト(Iコリント15:45−47)は、サタンの業を打ち滅ぼすためにやってきた。彼は、誘惑者の誘惑を拒み(マタイ4:11)、サタンの力をくつがえした(ルカ10:18−19)。キリストの御業の最終目的は、万物の更生(マタイ19:28)・回復である(使徒3:21;欽定訳では「償い」、改定訳では「回復」と訳されている)。使徒3:21「アポカタスタシス」という言葉には、「財産が正しい持ち主のところに回復すること。収支のバランスが取れること。」3
という意味がある。世界や神の財産をその正しい持ち主の元に返し、人間と世界を神の法の下に置くことが、キリストの御業の目的であった。神に属する者が神の元に帰り、神に見捨てられた者が神のご臨在とそのご支配の領域から除かれ、ゲヘナの火の中へ投げ捨てられることによって、時の経過とともに、すべての収支のバランスが取れていくのである。冒涜についてシュペルマンは次のように定義している。
冒涜は、侵略であり、盗みであり、神からの略奪である。冒涜とは、神のご人格の尊厳を表し、神を礼拝するために使われる神聖な品々を奪う略奪なのである。
この言葉 (sacrilege)は、sacrum=神聖とlegium a legendo=盗む、引き抜くの二つの言葉が合体してできたのである。
その定義は、明らかに「神のご人格に直接に加えられる冒涜」と、「神を礼拝するためにのみ使われるべき品々に対する冒涜」の二つに区分できるのである。4
神を冒涜した最初の人物は、サタンであり、アダムとエバは彼の後に従ったのである。
シュペルマンが言うように、
冒涜は、最初の罪であり、根源的な罪である。それは、世界の草々期において一般的な罪であり、堕落した人間によってこの大地の上で犯され、堕落する前の完全な状態にあった人間によって楽園において犯され、栄光を身にまとった天使によって天において犯された。彼等は、父なる神からそのみ力を横取りすることによって、父なる神を冒涜し、子なる神のみ言葉にケチをつけることによって、子なる神を冒涜し、聖霊なる神によって清められた事柄を汚すことによって、聖霊なる神を冒涜し、三一神のすべてのご人格の神性を犯すことによって、三位の神すべてを冒涜するのである。5
冒涜は盗みであるため、この罪は償いと回復を要求する。神のご計画において、この地上に正義が満たされるためのプロセスは二通りある。
1.真の人間であり、新しいアダムであるイエス・キリストは、神に完全に服従することによって、また、我々の身代わりに罪の刑罰を受けるという代償的死を経験することによって、神に対して償いをなされたのである。死刑は彼に対して実行された。キリストは、その復活によって、罪と死に対する支配権を確立し、ご自分の選びの民のために敵を打ち負かし、彼等に敵に勝利するための力をお与えになったのである。キリストは、人間を、罪と死の状態から救いだし、生まれ変わらせ、生命と義の状態に回復してくださったのである。
2.贖われた人間は、自分が聖化されるプロセスの中で、償いと回復を実行・促進しなければならない。世界は、創造時の栄光の状態に回復されなければならないが、それだけではなく、償いの要求が満たされる過程で、神の栄光と贖罪の御業の素晴らしさがいかんなく現されるまで、4倍にも5倍にも発展させられなければならないのである。神は、初め、万物に対して主権を持っておられたが、被造物が罪によって堕落して以来、この主権性に敵対する様々な自律的勢力が現れた。人間は、神の権力代行者としてこの世のすべての敵対的勢力を駆逐し、万物の上に、神の主権を回復する任務を与えられた。キリストによる再生の御業によって始められ、聖霊によって受け継がれ、贖われた人々をさらに聖め続けているこの回復の業は、「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」(イザヤ11:9)ようになった時に本格化するのである。
その時、冒涜は、償いと回復に変わる。冒涜と償いの両方の必然的結果は物質的である。即ち、申命記28章において明示されているように、物質的呪いと物質的祝福である。堕落した人間と堕落した地とは、贖われた人間と贖われた地とに変わるのである。
救いと聖化の務めは、この様に償いと回復を実行し、冒涜を、神への賛美、奉仕、十分の一税、献金、服従、そして、栄光に変えることである。
冒涜は、宗教の奉ずる神と救い主、そして、救いのプログラムと密接に関係している。ロ−マ人の救済観を調べるならば、その冒涜観をも知ることができる。ロ−マ皇帝とロ−マ帝国は、崇拝の対象であり、それゆえ、同時に、冒涜の対象でもあった。『テオドシウス綱領』には古代ロ−マの冒涜観についての記述が多いため、その内容は極めて興味深い。例えば、
わが神性なる帝国の始祖、この上なく誉れ高いヴァレンチニアンは、臣下にそれぞれ相応しい地位を与えるために、階級・報償制度を制定された。
1.それゆえ、もし、誰かが、分不相応な階級を要求し、それを強奪するならば、彼は、無知を口実に、自己弁護することはできない。神性なる皇帝の命令を無視することは、皇帝への冒涜である。
説明:皇帝の任命によらずに、地位を獲得することは、冒涜である。6
別の法令は、次のように規定する。「皇帝に接見する資格のある高貴な人々に敬意を払わない不届き者には、冒涜罪に対する刑罰と同等の刑罰が科せられる。」7
役人は、「昔の人々が定めた規則に絶対に違反してはならなかった。」 この規則に違反することは、「冒涜罪と見なされた」。8
規定の秩序、階級、地位への侵犯は、冒涜であった。9 公的祝典に際して、地方の役人が勝手に感謝税を徴収することは、冒涜罪として処罰された。10 貨幣を溶かしたり、それを売るために他の地域に持ち出したりすることも、冒涜であった。11 事実、「皇帝の聖なる肖像を写し、その神聖な御真影に危害を加え、その敬われるべき御像を冒涜的に鋳造した」無許可の業者は、冒涜罪として罰せられた。12この事例を見るとき、我々は、神を表すために刻まれた像を造ることを禁じた聖書の律法を思い出すのである。皇帝の資産に匹敵する富を築き上げることは冒涜であった。
13 結婚は神聖なる制度であったから、姦淫も冒涜とされた。14 キリスト者の標準(Christian standards)と同様に、この勅令においても、祖先崇拝の名残があるのかもしれない。「永遠の都市」ロ−マにおいて無許可のまま着手する事業は、すべて冒涜とされた。15
これらの勅令や、そのほかの文献を調べてみてはっきりと分かることは、ロ−マは、キリスト教を外面的に受容する前においても後においても、常に、キリストの神性よりも、皇帝や帝国の神性を重視していたということである。テオドシアヌス法典において始めてキリスト教的冒涜観がいくつか現れるが、基本法は神よりも国家との関連性が強かった。
しかし、キリスト教的冒涜観も明らかに認められるのである:司祭がその勤めをしているときに何か他の用事を押し付けてこの勤めの邪魔をすること、礼拝を掻き乱すこと、司祭を侮辱すること、そして、神のみ言葉が聴衆に語られるときにそれを無視したり無関心であることは、法典16章においてすべて冒涜的行為とされている。しかし、やはり、この法典の基本にある冒涜観は、ロ−マ的であった。
冒涜
(sacrilege)という言葉は現代人にとってほとんど死語になっているが、国家主義の思潮の中で、この概念はまだ残っている。現代の国家が人間中心主義的になればなるほど、それは、いよいよ益々人間の主・救い主になろうとし、すべての犯罪を自分に対して犯されたものと考えるようになるのである。現代国家にとって、神に対する犯罪はもはや犯罪とは認められないのである。人格に対する犯罪に関して、聖書は死刑を課すよう命じているが、現代国家は、それをほとんど死罪と認めていない。これに対して、国家に対する犯罪は、法の観点からみて、年々重要視されてきているし、しばしば死刑が適用されている。
しかし、本当の意味での冒涜とは、神に対するものであり、それは、償いと回復とを要求するものである。人間がもし信仰と服従によってこの要求を満足させないならば、神御自身が天から下られ、地を裁くことによってすべての償いと回復を実行されるのである。
神がお与えになる報いと祝福は百倍であると宣言されている(マタイ19:29)。我々の罪に対して神が求めておられる償いはせいぜい5倍であり、また、この償いは、神の義が要求する当然の義務である。しかし、これに対して、我々が神のお名前のために被った損失に対して神が実行してくださる償いは、まったくの自発的な恵みであり、それは百倍なのである。
1.
参照・R.J. Rushdoony,The Institutes of Biblical Law,pp.525-530,etc. Nutley,New Jersey:The Craig Press,1973.2.Ibid., pp.569-572.
3.W.E.Vine, An Expository Dictionary of New Testament Words,vol.III, p.289.Westwood,New Jersey:Fleming H.Revell,(1940)1966.
4.Sir Henry Spelman,The History and Fate of Sacrilege,p.1.Samuel J.Eales edition. London:John Hodges,1888. シュペルマンの初版は、1698年に出版された。序文と注のついたイールス版がはじめて出たのは1846年のことであった。
5.Ibid.,p.3.
6.Clyde Pharr, trans.,ed., The Theodosian Code and Novels and the Sirmondian Constitutions,6,5,2,p.127. Princeton. New Jersey: Princeton University Press,1952.
7.Ibid.,6,24,4,p.136.
8.Ibid.,6,29,9,p.147.
9.Ibid.,6,35,13,p.153.
10.Ibid.,8,11,4,p.212.
11.Ibid.,9,23,1,p.244.
12.Ibid.,9,38,6,p.254.
13.Ibid.,10,16,p.276.
14.Ibid.,11,36,4,p.335.
15.Ibid.,12,1,27,p.426.
"RESTITUTION" R.J.Rushdoony, Law and Society, pp.32-35.
Vallecito, California: Ross House Books, 1982.の翻訳。Translated by the permission of Chalcedon.