R・J・ラッシュドゥーニー
著者の主催する宣教団体「カルケドン」の協力者C氏から先週一通の手紙が届きました。それにはアメリカのある大都市の警察署長がC氏宛に書いた手紙が同封されていました。C氏はその署長にカルケドンのニュースレターを数部とテープを送っていたのでした。署長はディスペンセーショナリストで、前千年王国説を信じるファンダメンタリストであり、私たちの資料に強い反応を示しました。手紙にはこう記されていました。
彼(R.J.ラッシュドゥーニー)は「キリストはこの世の王である」と言っています。それはまったくの間違いです。(もしキリストが王であるならば、この世にこれほどの問題が起こるはずはありません。サタンこそこの世の神です。クリスチャンはこの世の民ではなく、天の住民です。)だから、私たちはこれから起ころうとする恐るべき出来事(大患難)を回避することができないのです。世界を正しく理解するには、ユダヤ人に与えられた命令と、恵みの時代(現代)にいるクリスチャンに与えられた進撃命令を区別して扱わなければならないのです。地上における神の民(ユダヤ人)の歴史を読む時、全世界は、神が服従する者を祝福され、反抗する者を呪われる方であることを知ります。
たしかに、私たちは神に服従しなければなりませんが、それだからといって、社会的行動が効を奏するとは思いません。なぜならば、聖書は、そのような行動は失敗に終わると教えているからです。大患難の後に、神御自身が御国の時代を到来させてくださいます。そのときが来るまで、この世はけっして正義も平和も義も知らないのです。(1976年4月15日付)
今日4千万から5千万、いやもっと多くのアメリカ人がこの警察署長と同じ「無律法主義とディスペンセーショナリズム」を信じています。彼らは、「正義と平和と義」のために戦っているクリスチャンの足を引っ張っています。きわめて多くの人々が次のように語るのをよく耳にします。「『キリストは今も主であり王であり、われわれは彼の律法を実際問題に適用しなければならない』などという教えは、サタンの教えであり、惑わしである」と。
ゲイリー・ノースは、著書“Backward, Christian Soldiers”において、このような義に対する敵対心がいかに邪悪な性格のものであるかを、適確に指摘しています。
サタンをこの世の王とする教えのルーツは一体どこにあるのでしょうか。サタンがこの世の王であると考える人々は、急進的ヒューマニズムを表明します。この署長の発言の中にもその影響を見ることができます。「『キリストはこの世の王である』と言っています。それはまったくの間違いです。(もしキリストが王であるならば、この世にこれほどの問題が起こるはずはありません。…)」
彼は、キリストであれサタンであれ、本当に王であるかないかを判断する基準は「人間の経験」にあると言っています。つまり、もしキリストが王であるならば、けっして私の回りに困難な問題が起こるはずがない、もし私の人生や経験の中で、悪が強い力をふるっているのであれば、それはサタンがこの世の神であるからにほかならない、と言うのです。
もしこの考え方が正しいならば、私たちはお互いに「それならサタンを礼拝せよ。」と言わなければならないはずです。この矛盾を隠すために、署長は「クリスチャンはもっぱら天に属する民であり、それゆえ、今の時代(契約期)において、この世に責任はない。なぜならば、それはまだキリストの王国とはなっていないからだ。」と言うのです。彼はイエスが主(または王なる神)であり救い主であると宣言している聖句を無視しています。
また、よく考えもせずにイエスを「キリスト」と呼んでいます。「キリスト」とは王位を表す呼称なのです。イエスが王であることを否定しながら、その舌の根も乾かない内に、その王の名を呼んでいるのです。彼の信仰はヒューマニズムです。なぜならば、キリストが王であるかどうかを判断する基準は、人間の経験の内にあると主張しているからです。しかも、その経験の解釈は人間中心的です。
しかし、問題はさらに深刻です。この署長のような人々をさらによく知るにつれて、ロジャー・プライスによって「ルーブ」と呼ばれている人々が備えている特徴が彼らにも当てはまることがはっきりと分かってくるのです。ルーブとは新種のアーバン・バーバリアン(都会の野蛮人)です。彼らの武器は購買力であり、人生最高の目的は自分自身を満足させることにあります。プライスによれば、彼らの選択基準は「僕、これ嫌い。」です。さらに、「彼らは何も信じていないので、何でも信じる用意があります。」1 洗練された前衛的ルーブは、自分を義とすることによって、この問題を解決しようとします。つまり、彼らは、他のすべてのルーブと共に、自己を義と認めることによって、基準不備という自らの問題を解決しようとするのです。
前衛ルーブは不義を信じる。なぜならば、不義の世界では、人間として自分が犯した過ちの責任を負わなくてすむからである。この信仰を正当化するために、彼は、必要に応じて、自分の回りにあるほとんどすべてものを不公正だと非難するのである。
そして、ハレルヤ、人間が人間に対して犯す具体的で圧倒されるような残虐行為を一つ一つ明らかにすることによって、彼は「贖われる」のである。2
その本質が不義であるような世界において、神の律法はまったく無益です。なぜならば、律法はいかなるものにも適用できないからです。署長が述べるように、もしサタンが「この世の神」であるならば、この世ではサタンの律法しか適用できません。それゆえ、私たちは「正義と平和と義」のために責任ある大胆な活動を行う責任から解放されるのです。たしかに、正義と平和と義を抽象的理念と解釈することによって、私たちは義を形式的に守ることができます。
しかし、律法によれば、私たちはこれらを日常生活の中で具体的に実践するように求められているのです。それゆえ、正義と平和と義を抽象化することは、神の律法を退けることにもなるのです。律法は、事物の真の属性を明らかにするので、律法を一つの[抽象]理念に変えることは、その現実性を否定することにつながるのです。神は人間と万物を完全なものとして創造されました(創世1:31)。
神の律法を、創造における健康とするならば、罪は癌、死に至る病です。罪は被造世界を悩ましてきました。罪は事物の本質ではなく、事物にとりつく病なのです。律法の抽象化は、「病こそ規準である。健康は事物の本性に反しており、単なる理想である。」と暗に唱えることなのです。
署長がこの世や神を判断する際に採用している基準は、彼の環境です。私たちの回りで「これほど多くの問題が起こ」っていることは、キリストが主でも王でもないことをはっきりと証明しているのです。神はヨブ記において人間中心の基準を非難しておられます。しかし、署長はこの基準を採用したのです。人間を判断の基準にすることは、堕落の原理、サタンの誘惑の原理の実践にほかなりません。
サタンの誘惑によって、人間は自分自身の神となりました。彼は、自分自身と自分の体験に基づいて、何が善であり、何が悪であるかを決定するようになりました。原罪とは、公然または非公然に神を拒否し人間を肯定することです。これは偶像礼拝です。いかなる方法・様式・形態においてであれ、公然または非公然に人間が神を拒否し、代りに自分の言葉・法・意思・幻を主張することは偶像礼拝にほかならないのです。 キリストは次のように断言されました。「あなたがたはわたしの友(私の王子、恵みによって養子にされた私の奴隷王子)です。」(ヨハネ15:14)すぐ前の箇所で、彼は次のように語られました。
ここで、神の律法と神の愛は完全に調和しています。いかなる矛盾もありません。一方を強調して他方をおろそかにすることは両方をおろそかにすることなのです。人間の世界は統一体です。いかに取りつくろおうとも、人間は神にはなれないからです。それにもかかわらず、人間が自分を神としたため、現実世界の諸要素は相対立し互いに矛盾するようになりました。そして人間は行動によって自己の勢力を拡張する以外にいかなる方法も失ってしまいました。それに対して、聖書の神は所有と主権の統一を主張されます。神の世界、法、愛、憎しみ、正義、平和、義、罪の宣告、選び、遺棄、その他すべての事柄には、共通の起源すなわち「絶対者なる神」が存在します。人間とは違って、神は自己矛盾に陥るお方ではありません。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もしあなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
結局、キリストの宣言は、律法と愛が一体となるべきであることを私たちに教えているのです。キリストが父なる神との関係において、律法を守っておられるのと同じように、もし私たちがキリストの律法を守るならば、私たちは彼の愛の中にとどまるのです。私たちが「多くの実」[バークレー訳で「豊かな実」]を結ぶ時にはじめて、私たちは彼の弟子となります。控え目な服従、受動的服従だけでは十分ではありません。つまり、「罪に対して最低限の抵抗を示し、律法に受動的に従えばよい」といった類の服従では足りないのです。私たちは生産的であること、豊かに実を結ぶこと、積極的に、力強く、忠実に従うことが求められています。「その時、あなたがたはわたしの弟子となるのです。」
また、その時、私たちは神の愛の中にとどまります。それは、キリストが神の命令を守ることによって神の愛の中にとどまっておられるのと同じです。私たちの内にあるキリストの喜び、彼の私たちに対する愛、私たちの互いに対する愛は、私たちが神の律法を忠実に守り、豊かに実を結ぶことを真剣に求める時に与えられるのです。
例えば、姦淫を犯している夫は、妻を愛していません。なぜならば、「愛は隣人にけっして害を与えない。それゆえ、愛は律法を全うする」(ローマ13:10)からです。そのような人は自分を愛しているのであって、妻を愛しているのではありません。時には、彼は妻を自らの喜びとするかもしれません。なぜならば、彼女がいることが彼にとって益であり、楽しみだからです。しかし、彼は妻を愛していません。なぜならば、「愛は律法を全うする」からです。
しかし、単なる物理的な誠実は愛ではありません。夫が妻に対して貞潔を保っているのは、ただ単に、妻や世間体や醜聞、病気などを恐れているからだけかもしれません。貞潔な人は、妻だけを愛し、彼女と生の共同体を形成します。また、相手の欠点を忍耐し、共に生きることを喜びます。こうすることによって、彼は律法を全うするのです。このような関係が豊かな関係なのです。
同じ事が神についても言えます。偶像礼拝は、他の神々に付き従って「姦淫」を犯すことであると、聖書は繰り返し述べています。神は、外面的な誠実や信仰告白や従順を、誠実とはお認めになりません。そのような信仰告白は金庫のようなものです。そのような人が追求しているのは、自分にとって興味のあることであり、彼が神に従うのは、実利を求めてのことに過ぎません。
あるファンダメンタリストの宣教師は、妻と私に向かって、次のように言いました。「もしあなたが信仰を持ち、正しいことをしているなら、あなたは死においてすべてのものを受けるでしょう。しかし、もしあなたが正しいことをしていないならば、あなたはあまり多くのものを失わず、おおむね暮らし向きは豊かになるでしょう。」これは偶像礼拝であり、不信仰です。私たちは主に対して「豊かな実」を結ぶように求められているのです。
もし神が私たちの王でなければ、私たちは別の王に従うことになり、サタンをこの世の神として崇めるようになるのです。サタンを崇めることは、自分自身を崇めることであり、自分自身を神とすることなのです(創世記3:5)。これは、不義・戦争・悪の世界を意味します。しかし、きわめて多くの人々にとって、自分が神となる権利を獲得するためならば、世界がどのように悪くなってもいっこうにさしつかえないのです。
その上、「神の御国は未来のディスペンセーションにおいて実現する」と言います。ディスペンセーショナリストが新旧両方の世界において勝利するならば、実際、私たちの信仰は、神のみ心に従っているのではなく、人間自身の意思に従うことになります。
プライスが言ったように、不義を信じることは自分自身の失敗を弁護することであり、もっとはっきり言えば、自分の不信仰と不服従を弁護することなのです。それは、神を差し置いて人間を弁護することなのです。そのような信仰も確かに実を結ぶでしょうが、それは、神に対してではありません。ディスペンセーショナリストは確かに実を結んでいます。しかし、それは、偽りの神に対する実なのです。
1.Roger Price: The Great Roob Revolution, p.13. New York: Random House, 1970.
2.Ibid., p.63.
This article was translated by the permission of Chalcedon.