R・J・ラッシュドゥーニー
旧約聖書のヘブライ語の中でも興味深い言葉の一つは、shalom である。これは Salem という名前にもなって、別の箇所で登場する。shalom は「平和」を意味する。その他にも、「完全さ」「完成」「完璧」といった意味がある。また「完成された」「償い」「賠償」「繁栄した」「回復された」「報いられた」という意味もある。この言葉についてガードルストーンはすぐれた意見を述べている。この言葉は、聖書の中でしばしば使われる「概念の間にある倫理的関係を示す言葉」の一例である、と彼は言う。イザヤは「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです」(イザヤ 26:3)と述べた。神の平和は人間への報酬である。すなわち、神からくる平安は、人間への報い・繁栄・回復・償い・賠償である、と言うのだ。ソロモンは、同じ言葉を使って次のように述べている。「もし正しい人がこの世で報いを受けるなら、悪者や罪人は、なおさら、その報いを受けよう」(箴言 11:31)。義人とは、神を信じ、神の律法を守り行なう人である。義人は平和・償い・報酬をこの時間の世界と永遠の世界において受け取るのである。われわれは寿命を引き延ばすことができないように、自分の撒いた種の刈り取りをも先延ばしにすることはできないのである。しかも、神は「その刈り取りを避けることはできない」(申命 28 )と断言し給う。恵みと祝福が下るということは、神の御好意の結果が永遠的であると同時に、時間的でもあるということを前提としているのである。
さらに、イザヤ 11:7-11 には、メシアの支配と共に訪れる平和と完全な世界が描かれている。狼が子羊とともに伏し、豹が子供と戯れるのである。「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」(イザヤ 11:9)のに続いて、これらのことは必ず起こるのである。
しかし、これがすべてではない。この平和はメシアの御業である。メシアの上には神の御霊がとどまっている。そして御霊は知恵・理解・助言・力の源であり、知識と主への恐れの源泉である(イザヤ 11:9)。キリストはご自身を「知恵」と同一視された(マタイ 11:9, 25-30)。パウロは、イエスこそ「神の力、神の知恵」(I コリント 1:24)であると宣言した。
三位一体の神はあらゆる知恵の源である。「人が賢い」という場合、それはどういうことを意味しているのだろうか。それは、「彼が神を信じ、神のすべての御言葉に従い、神の律法の教えを全生涯にわたってよく守ること。そして、服従という点において成長している」ことを意味するのである。神を離れた知恵というものは有り得ない。「主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ」(箴言 2:6)。神の御言葉、律法は、知恵であり光である(詩篇 119)。知恵に逆らうこと、すなわち、主に逆らって罪を犯す人は、己の魂に害を加えているのである。つまり、知恵を憎む者は死を愛しているのである。知恵・力・助言・理解は、神とともにある(ヨブ 12:13)。信仰のない者、神と御言葉に逆らう者は愚かである。己の心の中で「神はいない」(詩篇 14:1)と言う者は愚かである。愚か者の特徴は、なによりも、その罪である。彼は故意に罪を犯しているので、あえて無知でありたいと望むのである。彼は、己を愛して神を拒む者である。
神から離れたところに知恵を探し求める者にとって、そのいわゆる知恵とは「神の御言葉・律法・秩序の拒絶」なのである。イザヤは彼らを次のように描写している。
ああ。悪を善、善を悪と言っている者たちにわざわいあれ。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしているからだ。ああ。おのれを知恵ある者とみなし、おのれを悟りがある者と見せかける者たちにわざわいあれ。(イザヤ 5:20-21)
人間が自分勝手に定義した「知恵」とは、本質的に、創世記 3:5 において誘惑者が与えようとしたものにすぎない。つまり、すべての人が自分自身の神となり、善悪を自分一人で決めること−−これが知恵なのである。人はみな不可避的に神を知っている。それゆえ、不信仰unbeliefは無知ではなく罪なのである。不信仰は、神の真理を認めて神に従うことを故意に拒む罪なのである。だから、信仰の反対は罪である。それゆえ、不信disbeliefは無知ではなく罪なのである。不信は神への信仰を拒絶し、人間への信仰を表明する。不信とは、神の知恵を捨てて、人の知恵を採用することを求める陰謀的知恵観なのである。リンドブロムは次のように述べている。
イザヤは、己を知恵ある者・悟りのある者とみなす人々について語っている(5:21)。彼は「知恵ある者」を国民の中の特別なグループと見なしていない。己を知恵ある者とみなす人々は、みなヤーウェの導きや、預言者を通して語られた御言葉に従わなかった。むしろ、彼らは自分の計画にしたがって行動した。そのような姿勢は当時の民衆のリーダーの特徴であった。2
自分の道を歩み、人間の知恵に頼って生きる−−これは、人類の堕落以降、歴史全体にあまねく見受けられる生き方である。人間は次の2つのどちらかを選択しなければならない。つまり、神の知恵に頼って生命を得るのか、それとも、人の知恵(すなわち罪)に頼って死を選ぶのか。それゆえ、モーセはイスラエルを呼び集めて神のすべての御言葉に従うよう命じた。「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたのあなたの子孫も生き…るためだ」(申命 30:19)。生きるということは、神を愛し、神に従い、彼に執着することである。「確かに主はあなたのいのちであり、長寿である」(申命 30:20)。
イザヤは、人間的な知恵に頼り自分を信頼する者の末路がどのようなものであるかを次のように語っている。
それゆえ、わが民は無知のために捕らえ移される。その貴族たちは、飢えた人々。その群衆は、渇きで干からびる。それゆえ、よみは、のどを広げ、口を限りなくあける。その威光も、その騒音も、そのどよめきも、そこでの歓声も、よみに落ち込む。こうして人はかがめられ、人間は低くされ、高ぶる者の目も低くされる。しかし、万軍の主は、さばきによって高くなり、聖なる神は正義によって、みずから聖なることを示される。(イザヤ 5:13-16)
イザヤは、人間が低くされることは神が高められることになる、と宣言した。それは、人間が自分を高くし、神に逆らう尊大な知恵を尊んだからである。これは戦争である。人間は神を死に至らしめ、神の律法と強制から自由になることを求めているのである。マルクス主義は、人間の救いを「強制の王国から自由の王国への移行」と定義する。普通、マルクス主義は強制を経済学用語によって定義するが、経済学用語の背後には十分に発達した人間的神学が存在するのである。平和と知恵は人間中心主義の立場から解釈されている。つまり、平和と知恵とは人間の努力の結果であり、神の定めた秩序と強制から自由になろうした結果得られるものなのである。人間中心主義にとって、平和と償いとは神のいない宇宙を意味する。つまり、三位一体の神の痕跡を完全に拭い取られた宇宙、人間の独立的・創造的支配領域となった宇宙を意味するのである。人間は完全な自由裁量権を主張している。知恵は人間の自由裁量権と同一視されている。愛は、神・み恵み・律法と切り離され、これもまた人間の自由裁量権と同一視されている。それゆえ、自由裁量権を知恵と呼ぶことはできない。むしろ、それは神に死刑を宣告し、堕落の原理を再び主張する人間的試みなのである。
This article was translated by the permission of Chalcedon.